第7話「冬の庭園とかりそめの距離」
あの浴室での出来事から数日が経過し、俺の体調はすっかり元の状態へと戻っていた。
朝の澄んだ空気が窓の隙間から忍び込み、寝室の空気をひんやりと冷やしている。
分厚い羽毛布団から抜け出し、冷たい床に素足を下ろした。
足の裏から伝わる冷気が、まだぼんやりとしていた思考を鋭く覚醒させる。
昨夜もまた、クロードは俺の寝室の扉の前で一晩中警護に立っていたようだった。
屋敷の者たちには、俺たちが仲睦まじい新婚夫婦であると見せかけている。
だが、夜になれば彼は決して俺のベッドに入ることはなく、忠実な騎士としての境界線を頑なに守り続けていた。
あの夜、浴室で見せた狂気にも似た熱情は、まるで幻だったかのように影を潜めている。
その極端な二面性が、俺の心に小さな、しかし無視できないさざ波を立て続けていた。
身支度を整え、部屋の扉を開ける。
そこには予想通り、漆黒の騎士服を身にまとうクロードが静かに控えていた。
彼は俺の姿を認めると、滑らかな動作で深く一礼する。
銀色の髪が朝の光を反射し、彫刻のような横顔に冷たい影を落としていた。
「おはようございます、ルシアン殿下」
低く落ち着いた声が、静寂な廊下に響く。
「……おはよう。今日は、外の空気を吸いたい」
俺が短く告げると、彼は無言のままうなずき、歩き出した。
屋敷の裏手には、広大な庭園が広がっている。
王都の城に見られるような、緻密に計算された人工的な美しさはない。
代わりに、この北の大地に自生する力強い常緑樹や、寒さに耐える低木たちが自然のままの姿で立ち並んでいた。
石畳の小道に足を踏み入れると、霜を踏み砕く乾いた音が足元から響き渡る。
吐く息は真っ白に染まり、冷たい風が頬を刺した。
俺は思わず肩をすくめ、薄手の外套の襟をかき合わせる。
次の瞬間、ふわりと背後から分厚い布地の重みが肩にのしかかった。
驚いて振り返ると、クロードが自分の肩にかけていた毛皮の外套を俺に被せたところだった。
彼自身の体温と、あの雪の森を思わせる冷涼なフェロモンの香りが、分厚い毛皮の裏地から立ち上ってくる。
「風邪を引きます」
彼は俺の抗議を封じるように、外套の首元にある銀の留め具を器用な指先で留めた。
手袋越しに彼の指の関節が俺の顎の下に触れ、微かな熱が伝わってくる。
「……お前が寒くないのか」
俺は視線を逸らしながら、くぐもった声で尋ねた。
「私の体は、この程度の寒さで揺らぐようにはできておりません」
彼は淡々と答え、再び俺から半歩下がった位置へと移動した。
それが、公の場における彼なりの主従の距離感だった。
庭園の遠くでは、数人の庭師たちが枝の剪定作業を行っているのが見える。
彼らの視線がある場所では、クロードは決して俺に無礼な態度をとらない。
あくまで忠実な夫であり、主君を敬う騎士としての完璧な仮面を被っている。
俺たちは並んで石畳を歩き続けた。
彼の長い足に合わせようとすると、どうしても俺の歩調は早くなってしまう。
だが、彼は俺の足音に耳を澄ませているのか、俺が息を切らす前に必ず歩く速度を落としてくれた。
そういう細やかな気遣いを見せられるたびに、胸の奥がちくりと痛む。
契約結婚という名目で彼を利用しているのは俺の方だ。
王位継承争いから逃れるための盾として、彼の力と名声を都合よく使っているに過ぎない。
それなのに、彼は俺のすべてを肯定し、命を懸けて守り抜こうとしている。
その理由が、彼自身の狂おしいほどの愛情にあるのだとしたら、俺は彼に何を返せるというのだろうか。
庭園の中央にある、見晴らしの良いあずまやに到着した。
そこからは、屋敷を取り囲む広大な森と、遠くにかすむ国境の山脈が一望できた。
冬の枯れた景色の中にも、どこか静かで力強い生命力が息づいているのを感じる。
「美しい場所だな」
俺は手すりに寄りかかり、白くかすむ遠くの山々を見つめた。
「何もない、退屈な土地です。王都の華やかさを知る方には、物足りないことでしょう」
背後から、彼が静かに答える。
「いや、俺はここが好きだ。誰も俺に嘘をつかないし、誰も俺を道具として値踏みしない」
自然と口をついて出た言葉だった。
振り返ると、クロードはわずかに目を見開き、俺の顔をじっと見つめていた。
彼の氷のように青い瞳の奥で、何かが静かに揺らぐのが見える。
その視線の熱に耐えきれず、俺は再び景色へと向き直ろうとした。
しかし、足元の石畳に薄く張っていた氷に靴の底が滑り、体勢を大きく崩してしまった。
「危ない」
短い声とともに、強い力で腕を引かれる。
冷たい空気を切り裂き、俺の体はクロードの分厚い胸板の中にすっぽりと収まっていた。
彼のがっしりとした両腕が俺の背中と腰を強く抱き込み、決して逃がさない檻のように拘束する。
顔を上げると、鼻先が触れ合うほどの至近距離に彼の顔があった。
先程までの従順な騎士の表情は消え失せ、そこには獲物を捕らえた肉食獣のような、鋭く重たい執着が剥き出しになっていた。
彼の吐息が俺の唇をかすめ、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく打ち鳴らされる。
遠くにいる庭師たちの目など、今の彼にはまったく見えていないようだった。
「……離せ。誰かに見られる」
俺は震える声でささやき、彼の胸を押し返そうとした。
だが、彼の手のひらは俺の背中をさらに強く撫で下ろし、その体温を俺の奥深くへと刻み込もうとする。
「見られればいい。貴方が私の妻であると、この領地のすべての者に知らしめる良い機会です」
彼の低い声が、直接脳を揺らした。
その声には、理性を削り落としたような生々しい独占欲が張り付いている。
彼から放たれるαのフェロモンが、先程よりもずっと濃密に俺を包み込んだ。
みぞおちの奥で、Ωとしての本能が甘く疼き始める。
彼にこのまま抱きしめられ、すべてを委ねてしまいたいという抗いがたい衝動。
現代の価値観を持つ理性と、この世界で与えられた肉体の本能が、激しい軋轢を生みながら俺の中で混ざり合っていく。
彼がゆっくりと顔を傾け、その唇が俺の額に熱く触れた。
ただそれだけの接触なのに、全身の血が沸騰するような錯覚を覚える。
「貴方がこの地を愛してくださるなら、私はこの命のすべてを懸けて、貴方の居場所を守り抜きましょう」
誓いの言葉は、呪いのように甘く、そして重かった。
俺は彼の胸に顔を埋め、ただその静かな狂気と温もりに身を震わせるしかなかった。
かりそめの契約でしかなかったはずの二人の距離は、俺が気づかないうちに、もう引き返せない場所まで縮まり始めていたのだ。




