第6話「触れがたき熱と忠誠の形」
夜の帳が下り、屋敷の中はしんとした静寂に包まれていた。
夕食を終えた俺は、自室に備え付けられた浴室へと案内されていた。
湯気が立ち込める広い室内には、微かに薬草のような爽やかな香りが漂っている。
石造りの大きな浴槽には、たっぷりと熱い湯が張られていた。
数日ぶりの入浴に心が躍るのを感じながら、俺は身につけていた衣服を脱ぎ捨てようとした。
その時、背後の扉が開く音がして、重い足音が浴室内に響いた。
「……何をしている」
俺は振り返り、目を丸くした。
そこには、上着を脱ぎ、腕まくりをしたクロードが立っていた。
手には清潔な手ぬぐいと、木製の桶を持っている。
「お背中を流しに参りました」
彼は一切の表情を変えず、至極当然のことのように言った。
「は……? ばか、出て行け! 風呂くらい一人で入れる!」
俺は慌てて脱ぎかけたシャツの襟をかき合わせ、彼を睨みつけた。
「まだ病み上がりです。湯船の中でめまいを起こして倒れでもしたら大変だ」
「倒れない! もう熱は完全に下がったと言っているだろう!」
「万が一ということがあります。私がついている方が確実です」
彼は俺の抗議をまったく意に介する様子もなく、浴槽の脇に木桶を置いた。
そして、俺の前に立ちふさがると、シャツのボタンに手をかけようとする。
「触るなと言っているだろうが!」
俺は彼の手を力一杯振り払った。
バシッという鋭い音が浴室に響き渡る。
やってしまった、と一瞬後悔したが、もう遅かった。
クロードは振り払われた自分の手を見つめ、ゆっくりと俺に視線を戻した。
彼の青い瞳が、湯気越しに薄暗く光っている。
「……そんなに、私に触れられるのが不快ですか」
地を這うような低い声だった。
「不快とかそういう問題じゃない! 俺は一人で入りたいんだ。お前は過保護すぎる。少しは俺の個人の領域を尊重しろ!」
顔を真っ赤にして怒鳴る俺を、彼はしばらく無言で見つめていた。
彼の放つ雪の森の匂いが、湯気と混ざり合って浴室内に充満していく。
息をするたびに彼のフェロモンを吸い込んでしまい、体の奥底から甘い痺れが這い上がってくるのを感じた。
「……わかりました。では、私はここで背を向けております」
クロードはそう言うと、本当にくるりと背を向け、扉の前に立った。
「何かあれば、すぐにお呼びください」
彼の広い背中を見つめながら、俺は深くため息をついた。
これ以上彼を追い出すのは不可能だと悟り、諦めて服を脱ぎ始める。
背後からの気配を痛いほど感じながら、そっと湯船に足を踏み入れた。
熱い湯が冷えた体を包み込み、こわばっていた筋肉がじんわりとほぐれていく。
極上の心地よさに、思わず小さく息が漏れた。
だが、背後に立つ男の存在が、俺の思考を休ませてはくれなかった。
湯の音だけが響く静寂の中、俺はふと疑問を口にしていた。
「……お前は、なぜそこまで俺に執着するんだ」
自分でも驚くほど、静かな声だった。
背後の気配が、わずかに揺らいだような気がした。
「王族としての俺の価値は、辺境に下った時点で地に落ちている。お前ほどの男なら、もっと有利な条件で契約結婚を持ちかける相手はいくらでもいただろう。なのに、なぜ俺を選んだ」
沈黙が落ちる。
湯が波打つかすかな音だけが、二人の間を流れていく。
やがて、背後から静かな足音が近づいてきた。
振り返ると、クロードが浴槽の縁に片膝をつき、俺を見下ろしていた。
彼の瞳には、いつもの冷徹な光はなく、どこか痛みを堪えるような熱が宿っている。
「条件など、最初からどうでもよかったのです」
彼が低く囁く。
「私が欲しかったのは、貴方だけだ」
その言葉の重みに、俺の心臓が大きく跳ねた。
「貴方が私に契約を持ちかけてくださった時、私がどれほど歓喜したか、貴方には想像もつかないでしょう」
クロードの手が伸びてきて、濡れた俺の髪をそっと撫でた。
彼の手のひらはひどく熱く、触れられた場所から火花が散るような錯覚を覚える。
「貴方を誰の目にも触れない場所へ連れ去り、この手で永遠に閉じ込めてしまいたいと、ずっとそう思っていた」
彼の言葉は、あまりにもまっすぐで、そして狂気に満ちていた。
だが、不思議と恐怖は感じなかった。
彼の声に混じる切実な響きが、俺の心の奥底にある何かを強く揺さぶるのだ。
「……お前は、おかしい」
震える声でそう返すのが精一杯だった。
「ええ、狂っているのかもしれません。貴方の前では、私はただの愚かな獣に成り下がる」
クロードの顔がゆっくりと近づく。
彼の鼻先が俺のうなじに触れ、深く息を吸い込む音が聞こえた。
俺の体から発せられるΩの甘い香りを、彼が肺の奥深くまで取り込んでいるのがわかる。
背筋がゾクゾクと震え、湯船の縁を握る手に力が入った。
彼の唇が、濡れた肌に触れるか触れないかの距離をさまよう。
熱い吐息が耳元をかすめ、俺はたまらず目を閉じた。
食べられてしまう。
この男の巨大な感情に呑み込まれ、跡形もなく溶かされてしまう。
そんな予感に震えながらも、俺は彼から逃げ出すことができなかった。
彼の存在が、いつの間にか俺の中で、絶対的な安心感と甘い毒のように混ざり合い始めていたのだ。
本能の引力と、彼自身の途方もない愛情が、少しずつ、しかし確実に俺の心を侵食していく。
触れがたい熱を持ったまま、二人の距離は静かに、そして深く交わり始めていた。




