第5話「書庫の静寂と影を踏む距離」
熱が完全に引いてから、三日の時間が経過していた。
体の中を這い回っていたひどい倦怠感は薄れ、ようやく自分の足でしっかりと床を踏みしめることができるようになっていた。
朝食を終えた後、俺はあてがわれた自室を抜け出し、広い屋敷の中を探索することにした。
王都の城塞とは異なり、この辺境の邸宅は横に広く、どこまでも長い廊下が続いている。
窓枠はすべて重厚な木材で組まれており、そこから差し込む朝の光が、磨き上げられた床板に四角い模様を描き出していた。
すれ違う使用人たちは皆、俺の姿を認めると壁際に寄り、深く頭を下げて沈黙を守る。
彼らの態度は徹底して訓練されており、好奇の視線を向けてくる者すらいなかった。
それがかえって、クロードの揺るぎない支配力を物語っているようで、背筋に冷たいものが走る。
廊下の突き当たりに、ひときわ重厚な両開きの扉を見つけた。
真鍮の重いドアノブに手をかけ、ゆっくりと体重をかけて押し開ける。
蝶番がかすかに軋む音を立て、鼻腔をくすぐる古い紙とインクの匂いが漂ってきた。
そこは、天井まで届く巨大な本棚が壁一面に並べられた、広大な書庫だった。
窓から差し込む光の筋の中で、細かい埃が黄金色にきらきらと舞っている。
俺は思わずため息をつき、その静謐な空間へと足を踏み入れた。
前世の記憶を持つ俺にとって、情報は呼吸をするのと同じくらい身近で、当たり前に手に入るものだった。
しかし、この異世界において、書物というものは莫大な富と権力の象徴である。
これほどの蔵書を辺境の地に揃えているという事実だけでも、ヴァルツ家がどれほどの歴史と財力を持っているかが痛いほどわかった。
棚の間をゆっくりと歩きながら、革張りの背表紙に指先を滑らせる。
歴史、兵法、地理、そして魔術や生態学に至るまで、あらゆる分野の知識がここに眠っているようだった。
俺は王国北部の地理が記された分厚い一冊を引き抜き、窓際の長椅子に腰を下ろした。
表紙についた薄い埃を手のひらで払い、慎重にページをめくる。
羊皮紙のこすれる乾いた音が、静寂な部屋に心地よく響いた。
古い言葉で書かれた文章を目で追いながら、俺はこの辺境の領地が置かれている政治的状況を頭の中で整理し始める。
北の国境に位置するこの地は、隣国からの侵略を防ぐための巨大な防波堤としての役割を担っている。
つまり、王都から遠く離れているという点では安全だが、一歩間違えれば最前線の戦場になり得る危険地帯でもあった。
俺の二人の兄たちは、強力な軍事力を持つクロードを自分たちの陣営に引き入れたがっていた。
だが、彼はその誘いをすべて冷たくはねのけ、中立の立場を貫き通していた。
その彼が、何の力もないΩの第三王子を突然妻として迎え入れたのだ。
王宮は今頃、この不可解な事態の意図を測りかねて大混乱に陥っているはずだった。
『ただ守られるだけの飾り物になるつもりはない』
ページを見つめながら、俺は内心で強くつぶやく。
契約結婚の隠れ蓑としてこの地に逃げてきた以上、俺にも何かしらの役割が必要だった。
知識を蓄え、領地の運営や政治の裏側を理解できれば、彼にとって有益な駒として立ち回ることができるかもしれない。
それが、本能に支配されるΩという運命に対する、俺なりのささやかな抵抗だった。
時間を忘れて活字を追い続けていると、ふいに視界の端が暗くなった。
窓から差し込んでいた光が、何者かの大きな体によって遮られたのだ。
驚いて顔を上げると、いつの間にかクロードが俺の目の前に立っていた。
足音すらしなかった。
まるで最初からそこに影として存在していたかのような、不気味なほどの静けさだった。
「熱が下がったばかりだというのに、随分と熱心ですね」
低い声が、頭上から降ってくる。
彼は今日の軍務を終えたのか、少しだけ着崩した軽装の騎士服を身にまとっていた。
首元のボタンが開いており、そこから覗く引き締まった肌が、無骨な色気を放っている。
彼が近づいたことで、書庫の古い紙の匂いが、冷たい雪の森の匂いへと一瞬で塗り替えられた。
「……勝手に入って悪かったな。少し、この領地のことを知っておきたくて」
俺は本を閉じ、膝の上に置きながら答えた。
「謝罪など不要です。この屋敷にあるものは、すべて貴方のものですから」
クロードはそう言うと、俺の座る長椅子のすぐ隣に腰を下ろした。
広い肩幅が視界を圧迫し、彼から放たれるαのフェロモンが肌をピリピリと鳥肌立たせる。
俺は無意識に体をずらし、彼との距離を取ろうとした。
しかし、それよりも早く、彼の手が伸びてきて俺の膝の上にある本を取り上げた。
「おい、まだ読んでいる途中だ」
抗議の声を上げるが、彼は分厚い本を片手で軽々と持ち上げ、ぱらぱらとページをめくった。
「北部の地理と、隣国との歴史……。殿下がこのような小難しい本をお読みになるとは、少し意外でした」
彼の氷のように青い瞳が、俺の顔をじっと見つめる。
「ただの暇つぶしだ。それに、自分が住む土地のことくらい知っておいて損はないだろう」
俺が視線を逸らしながら答えると、彼は静かに本を近くの机に置いた。
「知識を得ることは素晴らしい。ですが、貴方が無理をしてこの土地の政治や防衛について学ぶ必要はありません」
彼の声はひどく穏やかだったが、そこには一切の反論を許さない強い響きがあった。
「私が貴方の剣となり、盾となります。煩わしい問題はすべて私が処理する。貴方はただ、この安全な檻の中で、穏やかに微笑んでいてくださればいい」
その言葉を聞いた瞬間、俺の胸の奥で冷たい怒りが燃え上がった。
彼はやはり、俺を一人の人間としてではなく、守るべき所有物としてしか見ていないのだ。
綺麗な箱に閉じ込められ、外の世界を知ることもなく、ただ養われるだけの存在。
それは、王都で兄たちに政略の道具として扱われる未来と、本質的には何も変わらないのではないか。
「……ふざけるな」
俺は低く唸るように言った。
「俺は、お前の愛玩動物になるためにこの場所へ来たわけじゃない。ただ守られているだけの無力な存在になるくらいなら、最初から一人で逃げ出していた」
強い口調で言い放ち、彼を正面から睨みつける。
だが、クロードの表情には怒りも戸惑いも浮かばなかった。
彼はただ、深く静かな湖のような瞳で俺を見つめ返しているだけだ。
「一人で逃げ出して、どうするおつもりだったのですか」
彼が問い返す。
「Ωのその細い体で、どれだけ遠くへ行けると? 道中で野盗に襲われるか、甘い香りに惹かれた獣に食い殺されるのが落ちです」
「それは……っ」
図星を突かれ、俺は言葉に詰まった。
彼の言う通りだ。
現代日本の価値観を持っていようと、この世界での俺の肉体はひどく脆弱なのだ。
「貴方はご自分の価値を、そしてその危うさを、まったく理解していない」
クロードはゆっくりと手を伸ばし、俺の頬にそっと触れた。
剣だこのある硬い指先が、熱を持った肌を滑るように撫でる。
冷たい体温が伝わり、俺の体がびくっと跳ねた。
「やめろ……触るな」
俺は顔を背けようとしたが、彼の手のひらが顎を捉え、それを許さなかった。
「私は貴方を縛り付けたいわけではない。ただ、二度とその瞳から光が失われるのを見たくないだけです」
彼の低い声が、祈りのように響く。
その言葉の意味を理解する前に、彼の顔がゆっくりと近づいてきた。
息がかかるほどの距離で、彼の整った顔立ちが視界を埋め尽くす。
みぞおちの奥がぎゅっと締め付けられ、呼吸が浅くなるのを感じた。
本能が彼を求めているのか、それとも俺自身の心が揺れ動いているのか、もうわからない。
俺はたまらず目を閉じ、彼の手から逃れるように身をよじった。
彼の手が離れると同時に、冷たい空気が二人の間に入り込む。
「……今日はこれくらいにしておきましょう。長く起きていると、また熱が出ます」
クロードは静かに立ち上がると、俺に背を向けた。
彼の広い背中を見つめながら、俺は乱れた呼吸を整えるのに必死だった。
この男の底知れない執着と、その奥に隠された感情の正体。
それに触れてしまえば、俺はもう二度と、元の自分には戻れなくなるような気がしていた。




