第4話「静寂の食卓と溶けゆく警戒」
鳥のさえずりが耳をくすぐり、薄いヴェールのような朝日がまぶたの裏を明るく照らした。
ゆっくりと目を開けると、天蓋の白い布地が視界に広がる。
深呼吸を一つしてみる。
昨夜のまとわりつくような熱気は引いており、体の重さもずいぶんと和らいでいた。
Ω特有の初期微熱はどうやら峠を越えたらしい。
上体を起こし、首筋に手を当てる。
汗ばんだ不快感はあるものの、頭痛は消え去っていた。
「おはようございます」
ふいに声が響き、部屋の隅に視線を向ける。
丸テーブルのそばに、クロードが立っていた。
漆黒の騎士服を完璧に着こなし、乱れ一つない銀糸の髪を朝の光に透かしている。
手には、湯気を立てるスープと焼きたてのパンが乗った銀の盆を持っていた。
「……おはよう」
俺は気まずさを隠すように、少しぶっきらぼうに返事をした。
彼が一晩中ここで看病してくれた記憶が、うっすらと脳裏に残っている。
王族としてのプライドと、現代人としての自立心が、彼に弱みを握られたような気がして素直にお礼を言うのをためらわせた。
「熱は下がったようですね。顔色が昨日よりずっといい」
クロードはベッドサイドの小さなテーブルに盆を置くと、椅子を引き寄せて座った。
「ああ、平気だ。もう何ともない」
俺が強がって見せると、彼は静かに盆の上のスープ皿を手に取った。
木製のスプーンでスープをすくい、軽く息を吹きかけて冷ますと、それを俺の口元へと差し出してきた。
「な……」
俺は言葉を失い、彼とスプーンを交互に見つめた。
「食事にしましょう。栄養を摂らなければ、また熱をぶり返します」
「いや、ちょっと待て。自分で食べる」
俺が慌ててスプーンを奪おうと手を伸ばすが、彼はひらりとそれをかわす。
「寝台の上でこぼしては大変です。私が口に運びますから、口を開けてください」
「ふざけるな! 俺は子供じゃない!」
顔を真っ赤にして怒鳴るが、彼の表情には微塵の変化もない。
氷のように冷たい青い瞳が、ただじっと俺を観察している。
その視線の奥に、昨日と同じ暗い熱が渦巻いているのを感じて、俺は息を呑んだ。
「殿下」
彼の声が、一段階低くなる。
「貴方はまだ、ご自分の立場を理解されていないようだ。ここは王都の安全な城の中ではない。いつ刺客が来るかもわからない辺境の地です」
「だからこそ、自分の身の回りのことくらい自分で……」
「いいえ」
彼は俺の言葉を鋭く遮った。
「貴方を守るためには、私が貴方のすべてを把握し、管理する必要があります。体調、食事、睡眠。その一つでも欠ければ、貴方の命に関わる。これは契約事項の範疇です」
理路整然とした言葉だが、どこか狂気を孕んだ執念が透けて見えた。
彼は本気で、俺の生活のすべてを自分の支配下に置こうとしている。
背筋に冷たいものが走った。
「……お前、それは過保護を通り越して、ただの軟禁だぞ」
俺が睨みつけると、彼はふっと目を伏せた。
「軟禁だと思われるなら、それでも構いません。貴方が生き延びるためなら、私はどんな悪名でも被りましょう」
彼の確固たる意志を前に、俺は言葉を失った。
この男に何を言っても無駄だ。
彼は自分が正しいと信じたことを、一切の迷いなく実行する。
俺は大きなため息をつき、抵抗を諦めることにした。
「……わかった。だが、食事くらい自分で食べさせてくれ。ベッドから出る」
俺が布団を退けようとすると、彼は少し思案するような間を置いた後、盆をテーブルに戻した。
「承知しました。では、あちらのテーブルで」
彼に促され、俺はベッドから降りた。
足元が少しおぼつかなかったが、彼の助けを借りることなく、なんとか丸テーブルの席に着く。
クロードは向かいの席に座り、俺が食事をする様子を無言で見守り始めた。
彼の視線が顔から指先までをねっとりと這い回るのを感じ、居心地の悪さに身をよじる。
温かい野菜のスープは、胃袋に優しく染み渡った。
香ばしいパンの匂いとともに、ようやく生きている実感が湧いてくる。
「……味はどうですか」
しばらくして、彼が静かに尋ねてきた。
「悪くない。城の料理人より腕がいいかもしれないな」
素直な感想をこぼすと、彼の目尻がわずかに下がったような気がした。
「それは何よりです」
彼の言葉には、微かな安堵の響きがあった。
食事を終えると、窓の外に広がる景色に目を向ける。
深い森の木々が風に揺れ、葉擦れの音が静かに響いていた。
王都の喧騒とは無縁の、穏やかで静寂な世界。
「……退屈な場所だと聞いていたが、案外悪くないな」
窓枠に肘をつきながらつぶやく。
「貴方が望むなら、この静寂を永遠に守り抜いてみせましょう」
背後から聞こえた彼の声は、誓いのように重く、そして甘かった。
振り返ると、彼は真っ直ぐに俺を見つめている。
その瞳の奥にある感情の正体を、俺はまだ知る由もない。
だが、彼が放つ雪の森の匂いが、今は不思議と心地よく感じられていた。
警戒心で固まっていた心が、春の雪解けのように少しずつ溶け始めている。
それがΩとしての本能なのか、それとも彼自身の不器用な優しさに惹かれているのか。
現代の価値観を持つ自分と、この世界で生きる自分が、静かに交差していくのを感じながら、俺はただ窓の外の景色を見つめ続けていた。




