第3話「甘やかな軟禁と夜の微熱」
背中に回された逞しい腕の感触が、いつまでも消えなかった。
木製の重厚な両開き扉が開かれ、エントランスホールに足を踏み入れる。
王都の城に見られるような、金箔や大理石をふんだんに使った虚飾はここにはない。
太い柱と磨き抜かれた床板、そして落ち着いた色合いの絨毯が敷かれた空間は、質実剛健でありながらどこか温かみを感じさせた。
壁に掛けられた燭台の灯りが、薄暗い空間にオレンジ色の柔らかな陰影を落としている。
出迎えた数名の使用人たちは、皆一様に深く頭を下げ、声一つ発することなく控えていた。
彼らの頭上に視線を走らせながら、俺はふらつく足取りを隠すように背筋を伸ばす。
「皆様、顔を上げてください」
クロードが静かな、しかしよく通る声で告げた。
使用人たちが一斉に顔を上げ、控えめな視線が俺へと注がれる。
彼らの瞳には、辺境の地に突如として現れた王族に対する戸惑いと、好奇の色がわずかに混じっていた。
「紹介しよう。ルシアン殿下だ」
クロードは俺の隣に立ち、堂々とした態度で言い放った。
「今日からこの屋敷で、私の妻として暮らすことになった。皆、主に対するのと同じ忠誠と敬意をもって仕えるように」
妻、という響きに、俺の肩が微かに震える。
偽装結婚であることは二人だけの秘密だ。
使用人たちにさえ、真実を明かすことはできない。
俺は作り笑いを浮かべようとしたが、熱を持った頬は引きつり、うまく表情を作れなかった。
みぞおちの奥からせり上がってくる甘い疼きが、容赦なく俺の体力を奪っていく。
「長旅でお疲れだ。寝室へ案内する」
クロードは使用人たちに短く指示を出すと、再び俺の腰に手を回した。
「……自分で歩ける」
小声で抗議するが、彼は聞こえないふりをして歩き出す。
厚い手袋を外した彼の大きな手が、薄い衣服越しに俺の腰骨をしっかりと掴んでいた。
体温の低い彼の指先が触れるたび、そこから奇妙な熱が全身へと広がっていくような錯覚に陥る。
広い階段を上り、長い廊下を進む。
窓の外はすでに完全な夜の闇に沈み、遠くでフクロウの鳴き声がかすかに聞こえた。
案内されたのは、屋敷の奥まった場所にある広大な寝室だった。
中央には清潔な白いシーツが敷かれた天蓋付きのベッドが置かれ、暖炉にはすでに火が入っている。
「ここで休んでください」
クロードは俺をベッドの縁に座らせると、手際よくガウンの紐に手をかけた。
「な、何をする」
慌てて彼の手首を掴む。
「着替えです。汗をかいているでしょう。そのままでは風邪を引きます」
彼は俺の手を振り払うことなく、至極真面目な顔で答えた。
「着替えくらい自分でできる。お前は出て行け」
「妻の世話を夫がして何が不自然なのですか」
「表向きの夫婦だと言っただろう。誰も見ていないところでまで演技をするな」
睨みつけるが、彼はまったく動じない。
それどころか、俺の顔を覗き込むように身を屈めてきた。
彼の青い瞳が、至近距離で俺を捉える。
森の雪を思わせる冷涼なフェロモンが、濃密に鼻腔を満たした。
「演技ではありません。私は貴方を守ると決めた。それは、貴方のすべてを管理し、健やかに生かすことも含まれます」
低い声が鼓膜を震わせる。
その言葉の裏に潜む、重く湿った感情の気配に、背筋が凍るような、それでいて甘い痺れが走るような奇妙な感覚を覚えた。
反論しようと口を開いた瞬間、視界がぐらりと揺れた。
全身から力が抜け、そのままシーツの上へ倒れ込みそうになる。
「殿下」
間一髪で、クロードの腕が俺の体を支えた。
彼の胸に顔を埋める形になり、心臓の規則正しい鼓動が耳に伝わってくる。
もう、抵抗する気力すら残っていなかった。
俺は小さくため息をつき、彼に身を任せることにした。
「……好きにしろ」
消え入るような声でつぶやくと、彼は満足げに俺の体を抱き起こした。
熟練の従者のように無駄のない動きで、俺の衣服が剥ぎ取られていく。
肌寒い空気が素肌に触れるが、すぐに温かいお湯で絞った布が肌を滑り始めた。
背中、胸元、腕。
彼の手つきはひどく慎重で、まるで壊れ物を扱うかのようだった。
剣を振るうための武骨な手が、どうしてこんなにも優しい動きをできるのか。
熱に浮かされた頭で、ぼんやりとそんなことを考える。
着替えが終わると、厚手の掛け布団が顎の下まで引き上げられた。
温かさと、彼の残り香に包まれ、強烈な睡魔が襲ってくる。
「……お前は、どこで寝るんだ」
閉じていく視界の端で、ベッドの横に椅子を引き寄せる彼の姿を捉えた。
「ここで。貴方の熱が下がるまで」
「……ばかな。自分の部屋に戻れ」
「私は騎士です。主君であり、妻である貴方の側を離れるわけにはいきません」
「……理屈っぽい男だ」
俺の悪態に、彼はわずかに唇の端を上げたように見えた。
それが笑みなのかどうかを確かめる前に、俺の意識は深い闇へと沈んでいった。
◆ ◆ ◆
夜半、激しい喉の渇きで目を覚ました。
暖炉の火は落ちかけ、部屋は薄暗い。
息を吸うたびに、喉の奥がカラカラに乾いているのがわかる。
寝返りを打とうとしたが、体が鉛のように重かった。
「目が覚めましたか」
すぐ横から声がして、ビクッと肩が跳ねる。
見ると、クロードが椅子に座ったまま、静かに俺を見下ろしていた。
暗がりの中でも、彼の青い瞳は鋭く光を放っている。
彼は本当に、一晩中ここで起きていたらしい。
「水……」
かすれた声で要求すると、彼はすぐに立ち上がり、水差しからグラスに水を注いだ。
俺の背中に手を回し、ゆっくりと上体を起こす。
グラスの縁が唇に触れ、冷たい水が喉を潤していく。
彼の手のひらから伝わる体温が、熱を出している俺には心地よかった。
水を飲み終えると、彼は再び俺をベッドに寝かせ、布団を直す。
「熱はまだ下がっていないようですね」
彼の手が俺の額に触れる。
その感触に、みぞおちの奥で何かが蠢くのを感じた。
Ωとしての本能が、強いαの匂いと接触を求めている。
理性がそれを必死に押さえ込もうとするが、高熱のせいであまりにも脆い。
「……触るな」
俺は弱々しく彼の腕を払いのけた。
「俺は、お前の所有物じゃない。契約だ。ただの、契約……」
息を切らしながら言う俺を、彼は黙って見つめていた。
「わかっています」
やがて、彼は静かに答えた。
「貴方は誰のものでもない。自由です」
その言葉とは裏腹に、彼の視線は俺を縛り付けて離さない。
まるで、見えない鎖で俺の全身を雁字搦めにしているかのようだ。
現代の記憶を持つ俺は、こんな理不尽な本能の引力を認めるわけにはいかなかった。
誰かに依存し、誰かの所有物になる運命など、絶対に拒絶する。
そう固く決意しているはずなのに、彼の手が離れた箇所が、ひどく冷たく感じてしまう。
自分の心の矛盾に苛立ちながら、俺は再び重い瞼を閉じた。
彼の放つ雪の森の匂いが、檻のように俺の周囲を取り囲んでいる。
だが、その檻の中は、今の俺にとって世界で一番安全な場所であることもまた、否定できない事実だった。




