第2話「辺境への道程と甘い誤算」
馬車が大きく揺れ、車輪が石畳を叩く鈍い音が響く。
王都の巨大な城門を抜けたのは、空が白み始めたばかりの早朝だった。
予想外の事態に兄たちの派閥が対応を協議している隙を突き、クロードは鮮やかな手際で王への上奏と辺境への出国許可をもぎ取ってきた。
俺の身の回りの荷物は最小限にまとめられ、今こうして彼と二人きりで馬車に揺られている。
逃亡劇としては完璧な滑り出しだった。
だが、俺の心は一向に休まらなかった。
向かいの席に座る男の存在感が、あまりにも大きすぎたからだ。
クロード・ヴァルツは腕を組み、目を閉じて静かに座っている。
分厚い胸板が呼吸に合わせてゆっくりと上下していた。
車内という密閉空間では、彼の放つ雪の森の匂いが逃げ場を失って充満している。
俺の体は昨夜から続くΩの初期微熱のせいで、ひどく過敏になっていた。
彼がわずかに身じろぎするだけで、びくりと肩が跳ねてしまう。
『落ち着け。ただのフェロモンだ。ホルモンバランスの乱れにすぎない』
俺は現代人としての理性を総動員し、本能の暴走を必死に押さえ込んでいた。
これはあくまで互いの利害を満たすための取引だ。
かりそめの契約結婚であり、そこに感情や本能が介入する余地はない。
「ご気分が優れませんか」
不意に、静かな声が降ってきた。
顔を上げると、いつの間にか目を開けていたクロードがこちらを見つめていた。
氷のように青い瞳が、俺の熱を帯びた顔をじっと観察している。
「……なんでもない。ただの馬車酔いだ」
強がって視線を逸らす。
弱みを見せれば、彼に主導権を握られそうな気がした。
身分は俺が上だが、実質的な力関係は完全に彼が上だ。
「嘘ですね」
彼が静かに指摘する。
「熱がある。呼吸も浅い。Ωとしての兆候が始まっているのでしょう」
そのストレートな指摘に、顔がカッと熱くなった。
「知ったような口を利くな。俺は平気だと言っている」
突き放すように言うと、クロードは小さく息を吐いた。
怒らせただろうか。
そう思った次の瞬間、彼が長い脚を伸ばし、俺の隣の席へと移動してきた。
広い肩幅が視界を塞ぎ、冷たい雪の匂いが一気に濃くなる。
考えるよりも先に後ずさろうとしたが、背中はすでに馬車の壁に張り付いていた。
「な、なんだ。離れろ」
「じっとしていてください」
クロードは俺の制止を聞き入れず、手袋を外した大きな手を俺の額に押し当てた。
剣だこのある手のひらが、熱を持った肌に直接触れる。
彼の体温は少し低く、それが今の俺にはひどく心地よく感じられてしまった。
「やはり、少し熱が高い」
至近距離で囁かれる低い声に、みぞおちの奥が震える。
「……触るなと言っている」
俺は彼の腕を払いのけようとしたが、その太い腕はびくともしなかった。
「私は貴方の夫となる男です。妻の体調を気遣うのは当然の義務でしょう」
「っ……それは表向きの話だろ! こんな狭い空間で馴れ馴れしくするな」
顔を真っ赤にして睨みつけると、クロードは額から手を離した。
しかし、彼は元の席へ戻ろうとはしなかった。
それどころか、車内に備え付けられていた毛布を手に取り、俺の肩からすっぽりと被せた。
「冷えると熱が上がります。このままお休みください」
彼の手が、毛布越しに俺の背中を軽く叩く。
まるで小さな子供を寝かしつけるような、ひどく不器用で、それでいて丁寧な手つきだった。
冷酷無比と恐れられる氷の騎士の姿からは、想像もつかない行動だ。
「……お前、なんか変だぞ」
毛布に半分顔を埋めながら、俺は不満げにつぶやいた。
「何がでしょうか」
「もっとこう……冷たい事務的な関係になると思ってた。なんでそんなに世話を焼く」
俺の問いに、クロードはわずかに目を伏せた。
彼の青い瞳の奥に、昨夜見たのと同じ、暗く熱い炎がちらりと覗く。
「私が貴方をお守りすると決めたからです。それ以上の理由が必要ですか?」
淡々とした口調だったが、その言葉には異様なほどの執着が張り付いていた。
背筋がゾクッとした。
彼がただの契約相手として俺を見ているのではないという確信が、不意に俺の中に芽生えた。
だが、その真意を問いただす前に、安心感からくる急激な睡魔が俺を襲った。
彼の放つαの匂いが、俺の警戒心を少しずつ溶かし始めていた。
『……ばかばかしい。俺は現代人だぞ』
薄れゆく意識の中で、俺は必死に抗弁した。
本能に流されるものか。
誰かに依存して生きるなんてご免だ。
そう思いながらも、俺は毛布を引き寄せ、彼のすぐ隣で目を閉じていた。
◆ ◆ ◆
馬車が止まる振動で意識が戻る。
目を開けると、いつの間にか日が傾き、空は茜色に染まっていた。
「到着しました」
外から扉を開けたクロードが、手を差し出している。
俺は毛布を退け、少しふらつきながら馬車を降りた。
ひんやりとした澄んだ空気が肺を満たす。
目の前には、石造りの王城とは全く異なる、素朴だが広大な木造の邸宅が建っていた。
ここが辺境の領地、ヴァルツ家の本邸だ。
周囲には深い森が広がり、王都のざわめきなど微塵も届かない静寂があった。
「よく手入れされているな」
周囲を見渡しながら言うと、クロードは短くうなずいた。
「華やかさはありませんが、静かに暮らすには悪くない場所です」
彼はそう言うと、俺の小さな鞄を無造作に持ち上げた。
「おい、それは俺が持つ。お前が持つようなものじゃない」
俺が慌てて手を伸ばすと、彼はひらりと身をかわした。
「重い物を持つのは私の役目です。殿下はそのままお歩きください」
「だから、そういう過保護な扱いはやめろと言っている。俺は男だぞ」
「ですが、Ωです。今は特に体が弱っている」
「関係ない! 俺の荷物だ、返せ!」
俺が彼の腕を掴んで引っ張ろうとすると、反動でバランスを崩し、前のめりに倒れそうになった。
「危ない」
クロードが鞄を放り出し、とっさに俺の腰を抱き寄せる。
固い胸板に顔から激突した。
痛みが鼻筋に走るのと同時に、強烈な雪の匂いが全身を包み込む。
俺の体はすっぽりと彼の長い腕の中に収まっていた。
体格差がありすぎて、まるで大人と子供だ。
「……っ、離せ!」
慌てて胸を押し返すが、彼の腕は鉄の鎖のようにびくともしない。
見上げると、彼の青い瞳が至近距離で俺を見下ろしていた。
その視線は氷のように冷たいはずなのに、なぜか火傷しそうなほどの熱を含んでいるように錯覚する。
「無理をして怪我をされては困ります。ご自身の脆さを自覚してください」
低く諭すような声が、耳の奥を直接撫でる。
心臓が再び早鐘を打ち始めた。
この男の過剰なほどの庇護欲は、明らかに異常だ。
契約結婚という名目の裏で、彼が何を考え、何を望んでいるのか。
俺にはまだ何もわからない。
だが、この静かな辺境の地で、彼から逃れる術はすでに存在しなかった。
少しずつ、しかし確実に、俺はこの氷の騎士の甘く危険な檻の中へと取り込まれようとしていた。




