第1話「冷たい檻と氷の騎士」
熱い。
体がひどく熱い。
シーツを握りしめる手のひらが、じっとりと汗をかいている。
荒い呼吸が静寂に包まれた薄暗い寝室に響き渡っていた。
ここはどこだ。
俺は誰だ。
不意に、脳裏を駆け巡る異質な記憶の奔流があった。
ひどい頭痛に襲われながら、必死にまぶたを開く。
視界が不自然なほど明滅している。
高熱に浮かされた頭蓋の内側で、二つの異なる人生が激しく衝突していた。
コンクリートの照り返し。
スマートフォンの無機質な光。
平和で平坦だった現代日本という異世界の記憶。
そして今、きらびやかな天蓋付きのベッドで喘ぐ自分。
小国エルウィスの第三王子、ルシアン。
それが今の俺の名前だった。
年齢はちょうど十八歳を迎えたばかりである。
この世界には、第二の性が存在する。
残酷で、理不尽で、本能という鎖で人間を縛り付ける忌まわしい法則だ。
甘ったるい匂いが自分の肌から立ち上っている。
熟れた果実のような、扇情的な香りだった。
Ω。
それが、俺に刻まれた運命の烙印である。
『冗談じゃない』
乾いた唇から声にならない毒づきがこぼれる。
前世の記憶を取り戻した今、この状況がどれほど絶望的か明確に理解できた。
エルウィス王国は現在、血で血を洗う王位継承争いの渦中にある。
野心に満ちた二人の兄は、どちらも強大な軍事力を欲していた。
そして、王族に発現した希少なΩである第三王子は、他国の有力な将軍や貴族を取り込むための最高の貢ぎ物となる。
政略結婚という名の、美しい箱に入れられた奴隷。
俺は近い将来、顔も知らない野蛮な権力者のもとへ道具として送られるはずだ。
現代社会で自由を知っていた魂が、そんな運命を受け入れられるはずがない。
全身に鳥肌が立った。
恐怖ではない。
理不尽な世界に対する激しい怒りと嫌悪感だ。
逃げなければならない。
だが、非力なΩが一人で城を抜け出したところで、すぐに追手に捕まるのは明白だった。
誰か、強大な盾となる存在が必要だ。
頭の中で王宮内の勢力図を素早く組み立て直す。
兄たちの派閥に属しておらず、かつ彼らでさえ手出しをためらうほどの力を持つ者。
たった一人だけ、心当たりがあった。
「誰か、外にいるか」
かすれる声に力を込め、扉の向こうに控える従者に呼びかける。
「はい、ルシアン殿下」
「王国筆頭騎士、クロード・ヴァルツを呼べ」
「ヴァルツ卿を、ですか。しかし、今は夜半で……」
「構わない。急用だと言え」
きっぱりと言い放ち、俺はゆっくりと身を起こした。
熱を帯びた体に鞭を打ち、寝衣の上から厚手のガウンを羽織る。
香りの漏れを防ぐため、首元までしっかりと布地を合わせた。
冷たい水を一杯飲み込み、呼吸を整える。
クロード・ヴァルツ。
二十八歳にして騎士の頂点に立つ、冷徹なる美丈夫。
彼の第二の性は、言うまでもなくαである。
氷のように冷酷で、いかなる権力者にも媚びず、ただ己の剣の腕だけを信条としている男。
彼ならば、兄たちの権威にも屈しない。
問題は、彼が俺の提案に乗るかどうかだ。
静かな部屋の中で、心臓が早鐘を打つ音だけがやけに大きく聞こえた。
しばらくして、重厚な木製の扉が控えめに叩かれる。
「入れ」
短く応じると、扉が静かに開かれた。
冷たい夜風の匂いとともに、一人の大柄な男が足音もなく部屋へ入ってくる。
月明かりに照らされた銀色の髪が、鋭い刃のように冷たい光を放っていた。
氷の海を思わせる青い瞳が、ベッドの端に腰掛ける俺を静かに見据える。
広い肩幅と分厚い胸板は、仕立ての良い漆黒の騎士服の上からでもはっきりとわかる。
一切の隙を感じさせない、洗練された暴力の結晶のような男。
彼が歩みを進めるたび、周囲の空気がピンと張り詰めるような圧迫感があった。
クロードは俺の数歩手前で立ち止まると、滑らかな動作で静かに片膝をついた。
深く首を垂れ、主君に対する淀みない礼をとる。
「お呼びにより参上いたしました、ルシアン殿下」
低く、チェロの弦を弾くような響きを持つ声だった。
「夜分遅くにすまない。人払いをしてある。顔を上げてくれ」
俺が言うと、彼はゆっくりと顔を上げた。
感情の読めない冷ややかな視線が俺を射抜く。
ふいに、雪の降る森のような、ひんやりとした静謐な匂いが鼻腔をくすぐった。
彼が放つαのフェロモンだ。
俺の体内に潜むΩの本能が、強大なαを前にして甘い疼きを上げ始める。
みぞおちの奥が熱くなり、吐息が震えそうになるのを必死に堪えた。
背筋を伸ばし、王族としての威厳をかろうじて保ちながら彼を見下ろす。
「単刀直入に言う。俺と結婚してほしい」
静寂が降りた。
暖炉の薪が爆ぜるかすかな音だけが、部屋の中に響き渡る。
俺は彼から視線を逸らさなかった。
彼が俺を正気ではないと判断し、顔をしかめる覚悟はできていた。
「理由は三つある」
俺は震えそうになる声帯を無理やり押さえ込み、淡々と語り始めた。
「一つ、俺がΩとして発現したため、遠からず兄たちの手によって政略結婚の駒にされること。二つ、それを防ぐためには、国内で最も武力と発言力を持つ貴方の名前が必要であること。そして三つ、貴方もまた、貴族たちからの煩わしい縁談に辟易しているはずだ。王族である俺を囲い込めば、他家からの縁談をすべてきっぱりと断る正当な理由になる」
息継ぎをして、彼の目を見つめる。
「これは偽装結婚だ。俺は王位継承権を放棄し、貴方の領地である辺境へ下る。お互いの利害は一致しているはずだ」
言い終えて、沈黙が落ちた。
クロードの表情には微塵の変化もない。
彫刻のように美しい顔立ちのまま、ただじっと俺を見つめ返している。
拒絶されるかもしれない。
いや、彼ほどの男が、何の力もない名ばかりの王子を庇護する理由などないのだ。
手のひらにじんわりと冷たい汗がにじむ。
俺が視線を落とそうとした、その瞬間だった。
彼の氷のように冷たかった瞳の奥に、暗く、熱を帯びた得体の知れない炎が揺らめいたように見えた。
「……私の妻になる、と。殿下ご自身の口から、そう仰るのですね」
地を這うような深い声が、俺の鼓膜を震わせた。
「あ、ああ。そうだ」
気圧されそうになりながらも、俺は一つうなずく。
「辺境の地は、この王都に比べればひどく退屈で、不便な場所です。それでも構わないと?」
「王都のきらびやかな檻に閉じ込められるよりは、ずっといい」
俺が答えると、クロードはふっと目を伏せた。
彼の長いまつ毛が頬に影を落とす。
次の瞬間、彼はゆっくりと立ち上がった。
俺を見下ろす形になった彼の巨躯から、先程よりもずっと濃密な雪の匂いが放たれる。
「承知いたしました」
あまりにもあっさりとした肯定だった。
「そのご提案、我が命に代えてもお受けいたします。明日一番に王へ上奏し、ただちにこの城を発ちましょう」
「え……? そんなに早く決めていいのか」
予想外の即答に、俺は思わず間の抜けた声を出してしまった。
もっと条件交渉や、裏の意図を探られると思っていたのだ。
「時は一刻を争うのでしょう。それに」
クロードは俺の言葉を遮り、一歩だけ距離を詰めてきた。
手袋に包まれた彼の大きな指先が、俺のガウンの襟元にそっと触れる。
布越しに伝わる微かな熱に、俺の肩がびくっと跳ねた。
「殿下は少し、隙が多すぎます。その甘い香りは、この城の獣たちを呼び寄せてしまう」
彼の顔が近づき、耳元で低い声が囁かれる。
背筋がゾクッとした。
それは恐怖ではなく、今まで感じたことのない甘い痺れだった。
彼が身を離すと、そこにはいつもの感情の読めない冷徹な騎士の顔があった。
「出発の準備を。すべては私が手配いたします」
彼は一礼すると、音もなく背を向け、部屋を出て行った。
扉が閉ざされた後も、俺はしばらくその場から動くことができなかった。
彼から漂っていた、あの甘さを孕んだ冷たい匂い。
首筋に触れた指先の記憶。
契約は成立した。
これで王位継承争いから逃れられる。
だが、胸の奥で警鐘が鳴り響いていた。
猛獣の檻から逃れるために、俺はもっと恐ろしい化け物の腕の中へ自ら飛び込んでしまったのではないか。
そんな根拠のない不安が、熱を持った体の中でいつまでも渦を巻いていた。




