番外編「雪解けの記憶と氷の檻」
◇クロード視点
冷たい石畳に顔を押し付けられ、口の中に血と泥の味が広がっていた。
今から十年前の冬。
王都の空は今にも雪を降らせそうなほど鉛色に沈み、刺すような北風が城の城壁を容赦なく叩きつけていた。
当時の私は、取るに足らない下級貴族の三男にすぎず、騎士見習いという名ばかりの雑兵だった。
力のない者は踏み躙られ、持たざる者は奪われる。
それがこの王宮という美しくも残酷な檻の真実だった。
その日も、上位の貴族子弟たちから理不尽な暴力を受け、私は中庭の片隅で一人、息も絶え絶えに倒れ伏していた。
折れた肋骨が肺を圧迫し、息をするたびに鋭い痛みが走る。
このままここで凍え死んだとしても、誰も私のことなど気に留めないだろう。
そんな投げやりな諦観が、冷え切った体を泥の底へと沈めていく。
視界が徐々に白くぼやけ、意識が遠のきかけたその時だった。
ひんやりとした風の匂いの中に、かすかに甘い、陽だまりのような香りが混ざり込んだ。
近づいてくる小さな足音があった。
誰かが私の傍らで立ち止まり、衣擦れの音が響く。
次の瞬間、ひどく上等な布地の重みが、凍える私の肩をふわりと覆った。
驚いてわずかに目を開けると、そこに幼い子供が立っていた。
王族だけが身につけることを許される、純白の毛皮の外套。
それを私にかけてくれたのは、まだ八歳になったばかりの第三王子、ルシアン殿下だった。
彼の大きな瞳が、泥にまみれた私をじっと見下ろしている。
そこには、王族特有の傲慢さや、底辺の者への憐れみなど微塵もなかった。
ただ、傷ついた生き物を案じるような、純粋でまっすぐな光が宿っていた。
彼は無言のまま、私の頬にこびりついた泥を小さな指先で拭ってくれた。
その指の温かさが、冷え切っていた私の魂の奥底に、一滴の熱いしずくを落とした。
言葉など必要なかった。
彼が私に向けたそのささやかな行動だけで、私の灰色の世界は鮮やかな色彩を取り戻したのだ。
あの日、あの中庭で、下級騎士のクロードは一度死んだ。
そして、ルシアン殿下を守るための剣として、新たに生まれ変わったのである。
それからの十年間、私は己の肉体を限界まで鍛え抜き、あらゆる感情を氷の底へ沈めて冷徹な騎士を演じ続けた。
すべては、彼に近づき、彼をこの腕で守り抜く力を得るためだった。
だが、彼が十八歳を迎え、第二の性がΩとして発現したと知った時、私の内に潜んでいた獣が狂ったように暴れ出した。
王宮の欲深い権力者たちに、彼が政略の道具として値踏みされ始めたのだ。
彼のその甘い香りを、美しい姿を、誰の目にも触れさせたくない。
私だけの安全な檻に閉じ込め、二度と外の世界の風に当てたくない。
そんな狂気にも似た独占欲が、日増しに私の理性を侵食していった。
彼をさらう計画を立て、実行に移す直前だった。
ある夜、彼の方から私を呼び出し、あろうことか契約結婚を持ちかけてきたのだ。
薄暗い寝室で、熱を帯びた瞳で私を見上げる彼を見た時、腹の底から湧き上がる歓喜で視界が歪むほどだった。
彼自身が、自ら私の檻へと足を踏み入れてくれた。
その事実がどれほど私を狂わせたか、彼は知る由もないだろう。
私は表情の筋肉を強烈な意志で押さえ込み、あくまで冷徹な騎士としての仮面を保ったまま、彼の提案を即座に承諾した。
辺境への道中、馬車の中で彼の額に手を当てた時のことを、今でも鮮明に覚えている。
彼の肌はひどく熱く、Ωとしての初期微熱に浮かされていた。
私の放つαのフェロモンに彼が反応し、その呼吸がわずかに乱れるのを感じるたび、私は己の手を切り落としたくなるほどの衝動に駆られた。
今すぐ彼を抱きしめ、その熱を自分のものにしてしまいたい。
だが、力ずくで彼を奪えば、彼の誇り高い魂は永遠に傷ついてしまう。
彼は自由を愛し、理不尽な運命に抗う強さを持っている。
その美しい意志を折ることなく、彼が自ら私を求めてくれる日まで、私はこの渇きに耐えなければならなかった。
辺境の屋敷での日々は、至福であると同時に、地獄のような拷問でもあった。
食事の世話をし、彼の肌に触れるたび、私の指先は微かに震えていた。
彼が私をただの過保護な騎士として疎ましがる様子すら、愛おしくて仕方がなかった。
彼が私の私室の書庫で、領地の歴史を学ぼうとしていたあの姿。
私に守られるだけの存在になることを良しとせず、懸命に自分の足で立とうとするその強さ。
私は彼を檻に閉じ込めたいと願っていたはずなのに、彼が檻を破って私の隣に並び立とうとしてくれることが、何よりも嬉しかったのだ。
そして、あの刺客が襲撃してきた夜。
彼を守るためとはいえ、彼に私の最も残虐で血塗られた姿を見せてしまった。
彼が私を恐れ、拒絶するかもしれないという恐怖が、私の心臓を氷のように凍りつかせた。
だが、彼は震える声で私を呼び、自らその手を差し伸べてくれた。
私の狂気も、血の汚れも、すべてを受け入れてくれたのだ。
うなじに牙を立て、彼の魂に私の刻印を刻み込んだ時の、あの極上の解放感。
彼が私の名前を呼び、私の腕の中で安心しきって眠りについた朝。
私は初めて、生きていてよかったと心の底から神に感謝した。
今、隣で穏やかな寝息を立てる彼を見つめながら、私はそっとその銀色の髪をなでる。
もう、誰も彼を脅かすことはできない。
この氷の騎士が、命に代えても彼の居場所を守り抜く。
彼は私の光であり、私の世界のすべてなのだから。




