表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
政略結婚から逃れるため氷の騎士と偽装結婚したΩの王子ですが、なぜか辺境で激重な溺愛を受けています  作者: 月夜 闇花


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
15/16

番外編「雪解けの記憶と氷の檻」

 ◇クロード視点


 冷たい石畳に顔を押し付けられ、口の中に血と泥の味が広がっていた。

 今から十年前の冬。

 王都の空は今にも雪を降らせそうなほど鉛色に沈み、刺すような北風が城の城壁を容赦なく叩きつけていた。

 当時の私は、取るに足らない下級貴族の三男にすぎず、騎士見習いという名ばかりの雑兵だった。

 力のない者は踏み躙られ、持たざる者は奪われる。

 それがこの王宮という美しくも残酷な檻の真実だった。

 その日も、上位の貴族子弟たちから理不尽な暴力を受け、私は中庭の片隅で一人、息も絶え絶えに倒れ伏していた。

 折れた肋骨が肺を圧迫し、息をするたびに鋭い痛みが走る。

 このままここで凍え死んだとしても、誰も私のことなど気に留めないだろう。

 そんな投げやりな諦観が、冷え切った体を泥の底へと沈めていく。

 視界が徐々に白くぼやけ、意識が遠のきかけたその時だった。

 ひんやりとした風の匂いの中に、かすかに甘い、陽だまりのような香りが混ざり込んだ。

 近づいてくる小さな足音があった。

 誰かが私の傍らで立ち止まり、衣擦れの音が響く。

 次の瞬間、ひどく上等な布地の重みが、凍える私の肩をふわりと覆った。

 驚いてわずかに目を開けると、そこに幼い子供が立っていた。

 王族だけが身につけることを許される、純白の毛皮の外套。

 それを私にかけてくれたのは、まだ八歳になったばかりの第三王子、ルシアン殿下だった。

 彼の大きな瞳が、泥にまみれた私をじっと見下ろしている。

 そこには、王族特有の傲慢さや、底辺の者への憐れみなど微塵もなかった。

 ただ、傷ついた生き物を案じるような、純粋でまっすぐな光が宿っていた。

 彼は無言のまま、私の頬にこびりついた泥を小さな指先で拭ってくれた。

 その指の温かさが、冷え切っていた私の魂の奥底に、一滴の熱いしずくを落とした。

 言葉など必要なかった。

 彼が私に向けたそのささやかな行動だけで、私の灰色の世界は鮮やかな色彩を取り戻したのだ。

 あの日、あの中庭で、下級騎士のクロードは一度死んだ。

 そして、ルシアン殿下を守るための剣として、新たに生まれ変わったのである。

 それからの十年間、私は己の肉体を限界まで鍛え抜き、あらゆる感情を氷の底へ沈めて冷徹な騎士を演じ続けた。

 すべては、彼に近づき、彼をこの腕で守り抜く力を得るためだった。

 だが、彼が十八歳を迎え、第二の性がΩとして発現したと知った時、私の内に潜んでいた獣が狂ったように暴れ出した。

 王宮の欲深い権力者たちに、彼が政略の道具として値踏みされ始めたのだ。

 彼のその甘い香りを、美しい姿を、誰の目にも触れさせたくない。

 私だけの安全な檻に閉じ込め、二度と外の世界の風に当てたくない。

 そんな狂気にも似た独占欲が、日増しに私の理性を侵食していった。

 彼をさらう計画を立て、実行に移す直前だった。

 ある夜、彼の方から私を呼び出し、あろうことか契約結婚を持ちかけてきたのだ。

 薄暗い寝室で、熱を帯びた瞳で私を見上げる彼を見た時、腹の底から湧き上がる歓喜で視界が歪むほどだった。

 彼自身が、自ら私の檻へと足を踏み入れてくれた。

 その事実がどれほど私を狂わせたか、彼は知る由もないだろう。

 私は表情の筋肉を強烈な意志で押さえ込み、あくまで冷徹な騎士としての仮面を保ったまま、彼の提案を即座に承諾した。

 辺境への道中、馬車の中で彼の額に手を当てた時のことを、今でも鮮明に覚えている。

 彼の肌はひどく熱く、Ωとしての初期微熱に浮かされていた。

 私の放つαのフェロモンに彼が反応し、その呼吸がわずかに乱れるのを感じるたび、私は己の手を切り落としたくなるほどの衝動に駆られた。

 今すぐ彼を抱きしめ、その熱を自分のものにしてしまいたい。

 だが、力ずくで彼を奪えば、彼の誇り高い魂は永遠に傷ついてしまう。

 彼は自由を愛し、理不尽な運命に抗う強さを持っている。

 その美しい意志を折ることなく、彼が自ら私を求めてくれる日まで、私はこの渇きに耐えなければならなかった。

 辺境の屋敷での日々は、至福であると同時に、地獄のような拷問でもあった。

 食事の世話をし、彼の肌に触れるたび、私の指先は微かに震えていた。

 彼が私をただの過保護な騎士として疎ましがる様子すら、愛おしくて仕方がなかった。

 彼が私の私室の書庫で、領地の歴史を学ぼうとしていたあの姿。

 私に守られるだけの存在になることを良しとせず、懸命に自分の足で立とうとするその強さ。

 私は彼を檻に閉じ込めたいと願っていたはずなのに、彼が檻を破って私の隣に並び立とうとしてくれることが、何よりも嬉しかったのだ。

 そして、あの刺客が襲撃してきた夜。

 彼を守るためとはいえ、彼に私の最も残虐で血塗られた姿を見せてしまった。

 彼が私を恐れ、拒絶するかもしれないという恐怖が、私の心臓を氷のように凍りつかせた。

 だが、彼は震える声で私を呼び、自らその手を差し伸べてくれた。

 私の狂気も、血の汚れも、すべてを受け入れてくれたのだ。

 うなじに牙を立て、彼の魂に私の刻印を刻み込んだ時の、あの極上の解放感。

 彼が私の名前を呼び、私の腕の中で安心しきって眠りについた朝。

 私は初めて、生きていてよかったと心の底から神に感謝した。

 今、隣で穏やかな寝息を立てる彼を見つめながら、私はそっとその銀色の髪をなでる。

 もう、誰も彼を脅かすことはできない。

 この氷の騎士が、命に代えても彼の居場所を守り抜く。

 彼は私の光であり、私の世界のすべてなのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ