第14話「終焉の雪と永遠の誓い」
国境を隔てる広大な平原は、吹きすさぶ吹雪によって視界が白く塗り潰されていた。
分厚い灰色の雲が天空を覆い、太陽の光を完全に遮断している。
馬のいななきと、鎧が擦れ合う冷たい金属音が、凍てつく空気の中で不気味に反響していた。
俺は厚い毛皮の外套に身を包み、辺境軍の最前線に配置された屋根付きの馬車の中から、その光景を静かに見下ろしていた。
前方には、金や赤の派手な装飾が施された王宮の先遣隊が陣を構えている。
およそ五百の兵たちは、寒さに震えながらも、王都の威信を示すために高く旗を掲げていた。
対するこちらの辺境軍は、漆黒の防寒具と実戦に特化したくすんだ色の鎧を身につけ、氷の彫像のように一言も発することなく整列している。
その先頭で、ひときわ巨大な黒馬に跨がっているのが、俺の伴侶であるクロードだった。
彼は兜を被らず、銀色の髪を容赦なく吹き付ける雪風にさらしている。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、片手で手綱を握るその姿は、いかなる軍勢をも震え上がらせる死神のような威圧感を放っていた。
「逆賊クロード・ヴァルツに告ぐ!」
王宮軍の陣形から、きらびやかな鎧を着た指揮官が進み出て、拡声の魔導具を使い怒鳴り声を上げた。
「貴様はルシアン殿下をたぶらかし、辺境へ拉致した大罪人である! 直ちに殿下を解放し、武装を解除して投降せよ! さもなくば、この王軍の刃が貴様らを跡形もなく殲滅するだろう!」
その薄っぺらな威嚇の声は、猛吹雪の音にかき消されそうになるほど頼りなかった。
俺は馬車の扉に手をかけ、冷たい金属の感触を確かめてから、ゆっくりとそれを押し開けた。
刺すような冷気が一気に車内へとなだれ込み、肺の奥まで凍りつかせそうになる。
だが、みぞおちの奥で燃える決意の火が、その寒さを完全に相殺していた。
護衛の騎士たちが慌てて制止しようとするのを片手で制し、俺は馬車のタラップを降りて雪の積もる大地へと足を踏み出す。
ざく、ざくという足音を響かせながら、俺はクロードの馬のすぐ横へと歩み出た。
敵軍の最前列にいる兵士たちが、突然姿を現した俺を見てざわめき始めるのがわかる。
「ルシアン殿下……! おお、ご無事でしたか! 今すぐ我々がその悪逆非道な騎士から救い出してご覧に入れます!」
指揮官が安堵したような、それでいて手柄を確信したような下品な笑いを浮かべて叫ぶ。
『ばかな男だ』
俺は内心で冷たく吐き捨てながら、大きく息を吸い込んだ。
「黙れ、愚か者」
魔導具など使わなくとも、鍛え上げられた王族の発声は、雪原の空気を切り裂いて敵陣の奥深くまで響き渡った。
「誰が拉致されたというのだ。俺はこの地の領主であるクロード・ヴァルツと正式に婚姻を結び、自らの意志でこの辺境へ下った。王位を巡る醜い争いに、これ以上俺を利用することは許さない」
俺の言葉に、敵の指揮官の顔から血の気が引いていくのが見えた。
だが、彼はすぐに気を取り直し、再び声を張り上げる。
「た、たぶらかされているのだ! その男は狂犬だ! 殿下、どうか目を覚ましてください!」
「目を覚ますべきはお前たちの方だ」
俺は毛皮の外套の襟元を大きく開き、自らのうなじを彼らの視線に向けて無防備に晒した。
雪の反射光の中、そこに刻まれた赤黒い噛み跡が、はっきりと敵陣の視界に焼き付けられる。
運命の番としての、決して消えることのない絶対的な契約の証明。
それを目にした瞬間、王宮軍の兵士たちの間に、絶望にも似たどよめきが広がった。
Ωの王族がすでに他のαと番になっているとなれば、もはや政略結婚の道具としての価値は完全に失われている。
彼らがここに軍を進める大義名分は、完全に崩れ去ったのだ。
「俺はすでに、この男のものだ。王都の権力も、兄たちの野望も、俺の心と体を縛ることは二度とできない。この国境の地は、俺たち二人の独立した領地であると、今ここに宣言する」
静まり返る雪原に、俺の言葉だけが重く響き渡る。
「……っ、か、構わん! その狂犬を殺せ! 殿下を奪い返せば、どうとでも言い訳は立つ!」
理性を失った指揮官が、裏返った声で突撃の号令を叫んだ。
王宮軍の先陣が剣を抜き、雪を蹴立ててこちらへと殺到してくる。
俺は一歩も退かず、ただその滑稽な突撃を冷ややかな目で見つめていた。
次の瞬間、俺の頭上から、空気を切り裂く甲高い音が響き渡った。
クロードが、巨大な黒馬の上から滑るように跳躍したのだ。
彼の姿は猛吹雪の中で完全にブレており、人間の目ではその軌道すら追うことができない。
銀色の閃光が、雪原を一直線に駆け抜ける。
刃が肉を断つ音すら聞こえなかった。
ただ、突撃してきた先陣の兵士たちの武器が、見えない力によって次々と半ばからへし折られ、空高く舞い上がっていく。
クロードの長剣が、指揮官の掲げていた王宮軍の巨大な軍旗の柄を、根元から一刀のもとに切断した。
重厚な布地が、雪にまみれた地面へと無惨に叩きつけられる。
「……ひっ」
指揮官が腰を抜かし、無様に馬から転げ落ちた。
たった一撃。
ただの一振りで、クロードは王宮軍の戦意を根こそぎ刈り取ってしまったのだ。
凄まじい暴力の結晶。
俺の心を貫く、美しい狂気。
この瞬間、彼こそが俺の世界のすべてを満たす唯一の存在なのだと、魂が激しく打ち震えるのを感じた。
「退け」
地に降り立ったクロードが、指揮官の首筋に刃を突きつけながら低くささやく。
「次にこの領地の境界を越える者がいれば、王都を火の海にしてでもその命を奪い尽くす。そう貴様らの主に伝えよ」
血の気を失った王宮軍は、武器を放り出し、我先にと雪原を逃げ帰っていった。
残されたのは、静かな吹雪の音と、足元に散らばる壊れた武器の残骸だけだ。
クロードは剣を鞘に納めると、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってきた。
彼の青い瞳には、先程までの冷酷な殺気は消え失せ、深い愛情だけが揺らめいている。
俺は彼に向かって両手を広げ、その分厚い胸板へと勢いよく飛び込んだ。
彼のがっしりとした腕が、俺の体を包み込み、冷え切った体を温めるように強く抱きしめる。
雪の匂いと、彼のフェロモンが混ざり合い、この世界で一番安全な場所を構築していた。
「終わりましたね、ルシアン」
彼の吐息が、俺の耳元を優しくなでる。
「ああ。ここから、俺たちの穏やかな日々が始まるんだ」
理不尽な身分制度も、本能への恐怖も、すべてはこの吹雪の向こう側へと消え去った。
互いの体温を分け合いながら、俺たちは光差す結末へ向けて、共に歩み出す確かな未来を手に入れたのだった。




