第13話「反撃の狼煙とつむがれる誓い」
うなじに刻まれた真新しい傷跡が、熱を帯びた脈打ちを繰り返している。
あの日から数日が経過し、俺の体内で荒れ狂っていた周期の熱は完全に鳴りを潜めていた。
代わりに、自分の肌から立ち上る香りが以前とは明確に変化していることに気づく。
熟れた果実のようなΩ特有の甘さは奥へ引っ込み、そこに雪の降る深い森を思わせる冷涼な気配が分厚く覆い被さっていた。
それは、俺がクロード・ヴァルツという強大なαの番となったことを示す、何よりの証明だった。
窓の外では、鉛色の空から大粒の雪が音もなく舞い落ちている。
暖炉の火がパチパチとはぜる静かな書庫の中で、俺は分厚い一枚の羊皮紙に向かっていた。
インク壺に浸した羽根ペンの先から、黒々とした液体が紙の表面へと滑り落ちる。
乾いた摩擦音だけが、冬の静寂に包まれた部屋の中に一定のリズムを刻んでいた。
背筋を真っ直ぐに伸ばし、かつて王宮の厳しい教育で叩き込まれた流麗な書体で、一文字ずつ丁寧に言葉を紡いでいく。
内容は、近隣の辺境を治める中立派の領主たち、そして国境を接する同盟国の貴族たちへ向けた公式な書簡だ。
第一王子と第二王子が結託し、辺境の領地へ暗殺者を差し向けたという事実の告発。
そして、俺が正式にこの地の領主であるクロードと婚姻を結び、王族としての権威をこの地に置くという宣言だった。
これまで俺は、ただ理不尽な運命から逃れることだけを考えていた。
だが、彼が俺のために血を流し、その生涯を懸けて守り抜くと誓ってくれた夜、俺の中の何かが決定的に変わったのだ。
もう、彼の背中に隠れて震えているだけの飾り物でいるつもりはない。
現代日本の記憶と、この世界で生きてきた王族としての知識を総動員し、彼と共にこの理不尽な世界と戦う。
書き終えた羊皮紙の端に、深紅の封蝋をたっぷりと垂らす。
熱でどろりと溶けた蝋の上へ、王族の証である紋章が刻まれた指輪を力強く押し当てた。
冷えて固まったそれを見届けたとき、背後の重厚な木製の扉がかすかな音を立てて開いた。
「根を詰めすぎです」
静かな足音とともに、低い声が書庫の空気を震わせた。
振り返ると、漆黒の騎士服を身にまとうクロードが、湯気を立てる磁器のカップを乗せた銀の盆を持って立っていた。
彼が部屋に入ってきただけで、周囲の空気がピンと張り詰め、同時にえも言われぬ安心感が押し寄せてくる。
俺は手にしていた羽根ペンを置き、凝り固まった肩を小さく回した。
「ちょうど書き終わったところだ。これで五通目になる」
俺が答えると、彼は盆を机の端に置き、俺の背後へと静かに回り込んだ。
厚い手袋を外した大きな手のひらが、俺の肩をそっと包み込む。
彼の体温が衣服越しに伝わり、凝り固まっていた筋肉がじんわりとほぐれていくのがわかった。
「北部の諸侯へ向けた親書ですか」
彼が俺の肩越しに、机の上に並べられた書簡を見下ろす。
「ああ。王都の連中が武力で押し潰しに来る前に、政治的な外堀を埋めておく必要がある」
俺はカップを手に取り、温かい紅茶を一口含んだ。
「暗殺者を送ってきた事実を公にすれば、彼らも大義名分を失う。お前が軍を動かすための、正当な理由にもなるはずだ」
俺の言葉を聞いたクロードは、しばらく無言のまま俺のうなじへと視線を落としていた。
やがて、彼の手のひらが肩から首筋へと滑り上がり、そこにある真新しい刻印の痕を親指の腹で優しくなでる。
ぞくりとした快感が背筋を駆け抜け、俺は思わず小さく息を漏らした。
「……私の妻は、私が思っていたよりもずっと恐ろしく、そして誇り高い方のようだ」
彼の声には、深い感嘆と、隠しきれないほどの愛情がにじみ出ていた。
「俺をただの無力なΩだと思っていたのなら、考えを改めてもらうぞ」
強がって見せると、彼は俺の髪に顔を埋め、深く息を吸い込んだ。
「ええ、痛感しております。貴方は私の守るべき光であり、共に戦場を駆ける無二の戦友でもある」
彼が顔を上げ、青い瞳が真っ直ぐに俺を見据えた。
「先程、国境の砦から急馬が到着しました。第一王子の派閥が動かした先遣隊が、すでにこの領地の境界まで迫っているとのことです」
その報告に、俺は持っていたカップを静かに盆へ戻した。
ついに来たか、という冷たい緊張感が腹の底に沈み込む。
数日前の暗殺者たちが戻らなかったことで、彼らはいよいよ実力行使に出たのだ。
「数はどれくらいだ」
俺が尋ねると、彼は一切の動揺を見せずに答えた。
「およそ五百。王都の近衛を中心とした、見栄えだけは良い烏合の衆です。私の騎士団を出せば、半日で蹴散らすことができるでしょう」
「待て。正面からぶつかれば、こちらも無傷では済まない」
俺は椅子から立ち上がり、彼と正面から向き合った。
「俺も行く。あの書簡の文面だけでは足りない。王族である俺自身が表に立ち、彼らの大義名分をその場でへし折ってやる」
俺の提案に、クロードの眉がわずかにひそめられた。
「危険です。戦場に貴方を連れ出すなど……」
「お前が俺を守ってくれるのだろう」
俺は彼を真っ直ぐに見つめ返し、一歩だけ距離を詰めた。
「もう、部屋に隠れて結果を待つだけの時間は終わりだ。お前が俺の剣となるなら、俺はお前の盾となる。それが、番として結ばれた俺たちの新しい契約だ」
沈黙が落ちた。
窓に吹き付ける雪の音だけが、二人の間に響いている。
クロードの瞳の奥で、驚きと、それに勝る歓喜の炎が揺らめくのが見えた。
彼はゆっくりと片膝をつき、俺の右手を恭しくすくい上げる。
そして、その手の甲に、祈りを捧げるように深く、熱い口づけを落とした。
「……御意のままに、我が主君」
誓いの言葉は、この氷の騎士が完全に俺のものとなったことを示す、決定的な響きを持っていた。
俺たちは互いの熱を確認し合うように視線を交ませ、迫り来る決戦の地へと向かうための準備を始めた。




