第7話:泥の配管、剥がれた爪のインテリジェンス
第7話:泥の配管、剥がれた爪のインテリジェンス
オデットが残していった、あの不自然に乾いたシルクの残響は、地下牢の濃密な湿気によって、音もなく押し潰されて消えた。
後に残されたのは、硝石の匂いが混じる、生ぬるいカビの空気だけだ。
壁の割れ目から染み出す水滴は、長い時間をかけて床の泥に小さな穴を穿ち、その水面に冷え切った油膜を広げている。私は冷たい壁に頭を預けたまま、自分の下腹部の奥を這い回る、腐った果実のような生ぬるい鈍痛をじっと凝視していた。
不規則な出血が、下着の繊維をじわじわと重く湿らせていく。
エルザという十七歳の華奢な器は、少しでも気温が下がると、内臓の機能が目に見えて出力を落とす。皮膚は紙のように薄く、その下を走る細い静脈の青い網の目が、まるで毒を流す配管のように透けて見えていた。
——ズウ、と。
暗闇の奥から、濡れた雑巾を床に引きずるような、不快な摩擦音が聞こえた。
マザルが、その巨大な身体を僅かに揺らしたのだ。彼の両手は、新体制の尋問官によって十本の爪をすべて根元から剥ぎ取られ、今やどす黒く凝固した血の塊のようになって、冷たい膝の上に転がっている。
「……オデット侯爵は、相変わらず良い匂いのする真空を纏っておられる」
マザルの声は、喉の奥に溜まった乾いた砂を噛み砕くように低かった。
爪を失った指先が、床の湿った苔を不意になぞる。剥き出しになった肉芽が床の砂利に擦れ、ピチャリと小さく爆ぜる音がした。常人なら気絶するほどの激痛のはずだが、彼の脳髄はその痛覚をただの「肉体の現状報告」として処理し、地上の冷酷な数字を数え続けている。
「地上は、ずいぶんと賑やかだそうです。エルザ様」
「……そう。あの乾いたタイムラインの上で、次は誰の肉が切り売りされているのかしら」
私は喉のひび割れた粘膜を震わせ、細い息を吐き出した。
声を出すだけで、細い鎖骨の噛み合わせがギチギチと嫌な音を立てる。
「王太子アルフレッドは、今や登壇するたびに、上着の裏で自分の脇腹を、爪が血に染まるまで掻きむしっているそうです。大衆の歓声という名の劇薬がなければ、あの男の過緊張を起こした中枢神経は、もう自立を維持できない。彼が演説で『クリーンな王国』と叫ぶたび、その口内からは胃酸の酸っぱさが溢れ、白い歯の根元を黒く溶かし始めています」
マザルは、剥がれた指先をじっと見つめたまま、淡々と語る。
「聖女クラリスも、もう限界だ。身内の官僚を『汚職の残党』と罵りすぎて、ついに組織の中で孤立しました。彼女の噛み潰した舌の裏からは、もう言葉ではなく、膿混じりの粘液しか出ない。回廊の誰も、彼女のヒステリックな金切り声に耳を傾けなくなっている。……自らの放った正しい言葉の刃で、自らの肉体を内側から細切れにしているのです」
綺麗事で編まれたシステムは、機能不全を起こすと、まずその身内の肉体から食い荒らし始める。
私は、前世の魔王だった頃の記憶を、一瞬だけ脳髄の裏で交差させた。
かつて、私は圧倒的な武力で世界の半分を焼き尽くし、恐怖の絶対正義で民を縛り付けた。しかし、どれだけ敵の首を跳ねようとも、民の胃袋が毎日要求する「パンの質量」を満たすことはできず、結局は身内の飢えと不満による内部分裂という、泥臭い現実によって足元から崩壊したのだ。
武力も、綺麗な正義も、本質は同じだ。
人間の肉体が持つ、ドロドロとした不条理な生理を無視したシステムは、必ず自滅する。
——ゴリ、と。
私の指先が、監獄の床に落ちていた硬いパンの屑を無意識に潰した。
爪の間に、乾いた小麦の粉が不快に入り込む。その生理的な嫌悪感が、私の意識を再び、この冷え切った監獄の現実に着地させる。
「レイモンドの弾いた算盤は、どうなったの」
「海の向こうの、ジョルジュ教皇の放つ、分厚い聖書の重さで叩き割られましたよ」
マザルの黒い唇が、皮肉に歪んだ。
「レイモンド顧問は、一切の汗をかかない白い指で、非効率な辺境の切り捨てを淡々と進めていた。エルザ様が魔族との間に結んでいた『濁った水脈(密約)』を、汚職の膿として破棄した。……その結果、魔族の残党は暴徒化し、海の向こうの教皇は『対テロ全面戦争』の大義名分を掲げて、我が国の国境線へ土足で踏み込んできた。ジョルジュ教皇の脳を包む分厚い脂肪には、我が国の繊細な外交バランスなど、一ミリも認知されません。ただの『無痛の肉塊』が、新体制のクリーンな庭を更地にしようとしています」
「……おめでたい頭ね。泥水をすすって配管を維持する苦労を知らない、無傷の大人たちの正義なんて、ただの凶器だわ」
私は、肺の底から競り上がってくる、鉄錆の味を伴う激しい咳を、手平で強く押さえ込んだ。
ゲホ、と短い塊が、私の白い手のひらに赤い斑点を作る。
ぬるりとした液体の感触が、皮膚の皺に沿って広がっていく。エルザの肉体のタイムリミットは、あと二週間。だが、私の死が完了する前に、地上の新体制は、外圧という本物の現実によって、骨ごと粉砕されるだろう。
「隣国のブラドはどう動いている」
「あの『氷の数式』は、すでに動いています。我が国が国際社会で孤立した瞬間を見計らい、国境の炭鉱地帯の割譲を要求してきた。断れば、冬の軍勢がこの国の喉元を干上がらせる。アルフレッドの綺麗な言葉では、ブラドの凍てついた医療器具のような合理性を、一秒も引き留めることはできない」
マザルは、剥がれた爪の先から滲む新しい血を、冷たい床の泥へと擦りつけた。
「ギルバートら平民たちは、すでに怯え始めています。エルザという『叩きやすい悪』を消費して得られたつかの間の全能感は終わり、明日食べるパンの価格が三倍に跳ね上がった現実に直面して、回廊の噂話は、今や王子への呪詛へと変わりつつある」
かつて、私が強引に予算を引っ張って作った堤防のおかげで、彼らは飢えずに済んでいた。
その記憶を都合よく忘却し、私に石を投げつけた彼らの皮膚に、今度は本物の飢餓の鳥肌が走っているのだ。
私は手のひらの血を、ドレスの汚れた裾で乱暴に拭い去った。
繊維が擦れる不快な音が、鼓膜の奥でモザイク状の耳鳴りと混ざり合う。
「マザル。……仕込みを、始めましょう」
「御意。エルザ様が前世で、そしてこの十七歳の肉体で流し続けた、あの『濁った利権の水脈』。あれがなければ、この国の大衆は一ヶ月も生存できないという現実を、彼らの喉元に物理的な骨として突き刺してやりましょう」
マザルは、十本の肥大した黒い指先を床に突き立て、泥の上に、隣国のブラドへ送るための、冷徹な利害関係の術式を、音もなく描き始め変えた。
部屋の隅では、空調の唸りのような、地下の不気味な地鳴りが断続的に響いている。
世界は綺麗な背景ではない。
私を、そして地上で踊る哀れな人形たちをすり潰すための、巨大な檻だ。
私は、ミシミシと鳴る細い背骨を再び冷たい壁に預け、暗闇の奥を見つめた。
彼らの放つ「正しい言葉」が、彼ら自身の肉体をどこまで切り刻み、ボロボロにしていくか。
私はこの檻の底から、自らの死が完璧に完了するその瞬間まで、静かに、解剖医の目で凝視し続けるだけだ。




