第6話:真空のドレス、飽食のタイムライン
第6話:真空のドレス、飽食のタイムライン
王宮の白い回廊を流れる噂話は、ここ数日で急速にその水分を失っていた。
二週間前まで、誰もが口に含んでは興奮に頬を紅潮させていた「悪女エルザ」という音は、今や何度も噛み潰されて味のなくなった出がらしの茶葉に似ていた。大衆の喉は、常に新しく、より刺激的な「誰かの小鼻のうごめき」や「内臓の腐敗」を求めて喘いでいる。エルザを監獄へ放り込んだというクリーンな結果だけでは、彼らの退屈という名の巨大な胃袋を、いつまでも満たし続けることはできなかった。
回廊のあちこちで、扇子の影から漏れる声のト音は、すでにエルザの犯した汚職から、来週の観劇の予定や、新しい仕立て屋の評判へと移り変わっている。
「——もう、エルザの話はカロリーが高くてダサいわね」
緑のドレスの裾をかすかに揺らしながら、女侯爵オデットは、自身の指先をじっと見つめていた。
爪の表面には、薄い桃色の油が丁寧に塗られ、王宮のランプの光を滑らかに弾いている。彼女の皮膚は、周囲の人間が焦燥に駆られて吐き出す熱気や、王太子たちの胃の引き絞られるような痛みを吸い上げることで、じっとりと発光していた。
オデットの内側には、何もない。
ただ、大衆という巨大な怪物が次に何を喰いたがっているかを感じ取る、不気味なほど過敏な触角だけが、彼女の脳髄の底で動いている。彼女にとって、正義も悪も、タイムラインに並ぶ安価な消費財に過ぎなかった。
「オデット。なぜ、そんな冷たい目で私を見る」
背後からかけられた声は、寝不足の泥を孕んでひどく濁っていた。
王太子アルフレッドが、執務室の重い扉に寄りかかっている。彼の美しい金髪は生乾きの雑巾のように額に張り付き、目の白い部分は細い赤血球の網の目で埋め尽くされていた。彼が呼吸をするたび、上着の胸元が不規則に小さく跳ねる。中枢神経が限界まで張り詰め、胃壁から滲み出る酸の酸っぱさが、彼の口内を常に満たしているのだろう。
「冷たい目? 滅相もございません、アルフレッド殿下」
オデットは振り返り、肉体のどこにも痛覚を持たない者の、あまりにも滑らかな笑みを浮かべた。
「私はただ、殿下の『正しい改革』が、これほど早く民を退屈させてしまったことを、少しだけ憂いているのですわ。あの子たちは、エルザという大きな玩具を取り上げられて、もう次の生贄を探し始めています。今度は、誰の首が処刑台に載れば、あの回廊は優しく震えてくれるのかしら」
「私は……民のために、この国の膿を出したのだ。退屈などという軽薄な理由で、正義が揺らいでたまるか」
アルフレッドは、自分の乾いた唇を強く噛んだ。
じわり、と小さな血の玉が浮き上がる。だが、彼のその痛みは、大衆の乾いた耳にはもう届かない。オデットは彼の充血した目を、まるで壁の隅に溜まった埃でも見るかのように一瞬だけ見つめ、それから音もなくドレスを翻した。
(この船の底には、もう冷たい水が溜まっているわ)
彼女の脳内には、すでにアルフレッドを見捨て、次の有力貴族や海の向こうのジョルジュ教皇の手を握るための、乾いた数式が並び始めていた。
——カサ、カサ。
薄暗い地下牢獄の床を、羽の片方が千切れた蝿が、歪な軌跡を描きながら這っていた。
それは飛ぶことを諦めた虫の、乾いた脚が泥の床を擦る生理的なノイズだった。耳の奥で、モザイク状の激しい耳鳴りが断続的に鳴り響き、私の聴覚の端々を少しずつ削り取っていく。
「……あ」
ベッドの上で僅かに寝返りを打とうとした瞬間、私の胸の奥から「パキリ」と、小枝を折ったような硬い音がした。
細い肋骨の節々が、自身のわずかな肉の重みに耐えかねて軋んだのだ。エルザという十七歳の器は、骨密度がスカスカに削れ、冬の冷気が監獄の格子の隙間から忍び込むたびに、節々が物理的な痛狂を起こす。
前世の、数万の軍勢を率いて泥水をすすった魔王の記憶が、一瞬だけ脳髄の裏で混線する。
あの時、私の背中には、世界をねじ伏せるための黒い翼と、どれだけ殴られても砕けない鉄の背骨があったはずだった。燃え盛る戦火の臭いと、肉が焦げる脂の甘い香り。
——ザザ、と。
不自然に乾いたシルクの衣擦れが、私の鼓膜を不快に撫でた。
その冷たい摩擦の音で、私の意識は唐突に、冷え切った監獄のベッドへと着地させられる。
「まあ……ずいぶんと小さくなってしまわれたのね、エルザ」
鉄格子の向こうに、緑のドレスを纏ったオデットが立っていた。
彼女のまわりだけ、空気の湿度が完全に奪われ、奇妙な真空の空間が出来上がっているようだった。オデットは、鼻腔にこびりつく生乾きの藁の悪臭や、床を這う片羽の蝿を、まるでそこには何も存在しないかのように完全に無視して、私を見つめていた。
彼女の皮膚は、ここが地下の底であることを忘れさせるほどに滑らかで、一切の汗をかいていない。
「……何の用かしら、劇場の支配人様」
私は喉の奥の、ひび割れた粘膜から、ヒューヒューと鳴る細い声を絞り出した。
怒りを表現しようとしても、この華奢な肉体は勝手に過呼吸の震えを起こし、目尻からぬるい涙が勝手にこぼれ落ちる。弱さという名の檻が、私の魂をどこまでも惨めに縛り付けていた。
「用などありませんわ。ただ、あなたが完全に壊れてしまう前に、その美しい『不全感』を、少しだけコレクションしておきたくて」
オデットは鉄格子に、その桃色の爪を優しく添えた。
「アルフレッド殿下は、もうボロボロです。あなたが遺した告白書の重みに耐えかねて、毎日、誰もいない部屋で胃液を吐いていらっしゃるわ。クラリス聖女も、自分の吐き出す言葉の血豆で、もうまともに食事も喉を通らない。綺麗でクリーンな世界を作ろうとした人たちが、みんな、自分の肉体の不条理さに振り回されて、泥の中で溺れているの。……ねえ、エルザ。あなたは、彼らがそんな風に自滅していくのを、どんな気持ちで眺めているの?」
オデットの瞳は、一点の曇りもなく澄んでいた。
そこには、私の骨の軋みに対する憐れみも、王国の崩壊に対する恐怖も、何一つ映っていない。彼女はただ、他人の肉体がすり潰されていく様を、乾いたタイムラインのスクロールのように消費しているだけだった。
暗闇の奥で、マザルが爪の剥がれた黒い指先をそっと動かし、私とオデットの距離を冷徹に計測しているのがわかった。
私は、オデットに向けて開こうとした唇を、静かに閉じた。
言葉を交わすことすら、この女に対しては無駄だ。
彼女は、他者の情動という名の水分をストローで吸い上げる、発光する寄生植物。ここで私がどれほど生々しい内臓の疼きを言葉にしても、彼女の真空のドレスは、それを一瞬で「カロリーの高い、ダサいもの」として無効化してしまうだろう。
私は視線をオデットの顔から外し、再び、床を這う片羽の蝿へと落とした。
「あら、沈黙? つまらないわね」
オデットの衣擦れの音が、遠ざかっていく。
彼女の足音が地下牢の階段を上っていくたびに、部屋の空気は再び、重く湿った泥の臭いへと戻っていった。
喉の奥に、不規則な出血の苦い味が上ってくる。
私はそれを飲み込み、冷たい壁に、ミシミシと鳴る細い背骨を預け直した。
世界は私を消費し、オデットは私を冷笑する。
だが、私の死が完了するまでのあと約二週間、彼らの「正しい言葉」が、彼ら自身の肉体をどこまで切り刻むか、私はこの檻の底から、静かに見届け続けるだけだ。
ぽつり、と。
天井から落ちた一滴の水滴が、床の油膜を小さく揺らし、私たちの沈黙の奥へと、静かに、深く沈殿していった。




