第5話:聖女の血豆と、数式の冷気
第5話:聖女の血豆と、数式の冷気
長円形の会議机の中央に、一枚の羊皮紙が放り出されていた。
端が赤黒い染みで汚れたその告白書を、新体制の誰も、指一本触れようとしない。
銀のトレイに載せられた紅茶は、とうに冷え切っていた。
部屋の空調が吐き出す生ぬるい風に揺られて、茶葉の油分が、水面に不気味な虹色の油膜を広げている。その濁った膜が、王宮の豪奢なシャンデリアの光を、虫の目のように細切れに反射していた。
「——妥協など、断じて許されません」
沈黙の油膜を鋭く引き裂いたのは、クラリスの声だった。
平民の出でありながら聖女と崇められる彼女の、その鈴を転がすような声音は、今や限界まで張り詰めた弓の弦のように細く、かすれている。
「ジョルジュ教皇の要求は、我が国の主権に対する侵略です。辺境の炭鉱を教会に明け渡せば、民は神の名のもとに搾取される。私たちは、あの悪徳の権化たるエルザ・レヴェンタールを監獄へ送ったのです。旧体制の膿を出したばかりのこの国が、なぜ、海の向こうの老人の脅しに屈しなければならないのですか!」
クラリスが白ずんだ拳を机に叩きつける。
その衝撃で、油膜の浮いた紅茶が小さく跳ね、白地のリネンに茶色い汚点を作った。
彼女が激しく呼吸するたび、その喉の奥から、乾いた小枝が折れるようなヒューヒューという音が漏れる。
クラリスは、誰も気づかないように、そっと舌の先で口内の粘膜をなぞった。
ぬるい。そして、酷く苦い。
他者を「膿」と呼び、悪を糾弾する名演説を繰り返すたび、彼女の口内には、黒ずんだ血豆がボコボコと新しく膨れ上がっていた。それは、彼女が発した鋭利な言葉の刃が、大衆の熱狂を通過する前に、まず彼女自身の粘膜を内側から食い破っている証拠だった。
唾を飲み込むだけで、喉の奥が、錆びた針で一突きされたような生理的な激痛に襲われる。
だが、彼女は叫び続けなければならなかった。平民のルサンチマンを代弁し、悪を叩き潰す「聖女」でなければ、この回廊のどこにも、彼女の肉体を繋ぎ止める足場などないのだから。
「民衆は、私たちの『正しい改革』を凝視しています。今こそ門外のギルバートたちに呼びかけ、聖戦の意志を示すべきです!」
「……その聖戦とやらには、一体どれほどの魔力効率が担保されているのですか」
低く、水分のない声が、クラリスの熱弁を遮った。
財務魔術顧問、レイモンドだった。
彼は仕立ての良い黒い上着の袖から、驚くほど白い、そして細い指先を突き出していた。
激論が交わされるこの室内にあって、レイモンドの額には、一滴の汗も浮かんでいない。周囲の体温を物理的に数度吸い取っているのではないかと思わせるほど、彼の皮膚は乾燥し、冷え切っていた。
レイモンドは、一切の無駄がない動きで、数式が羅列された報告書を机に滑らせた。
「クラリス聖女。あなたの放つ美しいフレーズは、国家財政においては一文の価値もない『デッドウェイト(無駄)』です。あなたが大衆を煽って国境沿いの魔族残党との小競り合いを発生させるたび、辺境からの炭鉱輸送ラインは、物理的に停止する」
「私は、民の尊厳の話をしています!」
「私は、来月のパンの算出限界の話をしています」
レイモンドの抑揚のない声が、クラリスの唇の裏の血豆を冷たく圧迫する。
「エルザが裏で回していた、あの魔族との『不拡散の密約』。あれを汚職として完全に破棄した結果、我が国のエネルギー配給能力は、前月比で42パーセント低下した。ジョルジュ教皇の圧力を前に、今さら民衆に石を持たせて何になる? 数字の伴わない感情論は、ただの集団自決です」
クラリスは息を詰まらせ、喉の奥の血豆を不意に噛み潰してしまった。
じゅわりと、鉄の錆びた味が口いっぱいに広がる。それを強引に飲み込んだ彼女の顔が、嫌悪感で不格好に歪んだ。
会議机の最上席では、王太子アルフレッドが、ただ深く椅子に身を沈めていた。
彼の美しい金髪は、生乾きの雑巾のように額に張り付き、目は赤く充血している。数日前、地下監獄で吐き出した血の残滓が、まだ彼の胃の奥をキリキリと引き絞っているのだろう。彼は、目の前の告白書を、まるで毒蛇でも見るかのような目で見つめたまま、一言も発しない。
その様子を、緑のドレスを纏った女侯爵オデットが、扇子の影から冷ややかに見つめていた。
彼女の白い皮膚は、クラリスの焦燥やアルフレッドの衰弱をストローで吸い上げるようにして、じっとりと発光している。彼女の内側には、国家の行く末に対する愛も、新体制の理想に対する信念も、ひとかけらも存在しない。
(ああ、この船は、もうすぐ底から腐るわね)
オデットは、ドレスの裾が会議室の泥で汚れる前に、世論の矛先を「無能な王太子」へと移し替えるためのシナリオを、脳内のタイムラインに描き始めていた。彼女にとって、正義も悪も、大衆の暇つぶしのために用意された消費財に過ぎないのだ。
——カチ、カチ、カチ。
部屋の隅に置かれた大きな柱時計の、脱脂粉乳のような古びた歯車が噛み合う音だけが、逃げ場のない檻のように響いていた。
ポツリ。
天井の隅、湿気を吸ってぶよぶよに膨らんだ漆喰の割れ目から、一滴の水滴が落ちた。
それは冷たい泥床の油膜を小さく揺らし、生乾きの藁の悪臭を、再び部屋の奥へと拡散させる。
王宮監獄の地下深奥。
「……く、つ」
私は、粗末なベッドの上で、細い下腹部を両手で強く圧迫した。
痛い。
それは、魔王としての前世で経験した、戦場での華々しい負傷とは全く異なる種類のものだった。
華奢な少女の肉体の奥、内臓のさらに底から、錆びた古い鉄の杭をじわじわと突き立てられるような、鈍く、重い、周期的な狂い。
エルザという器は、使い潰される一ヶ月の最期を迎える前に、その生理的な構造そのものが、内側から崩壊を始めているらしい。
囚人服の薄い布地が、下腹部から染み出した不規則な出血をじっとりと吸い上げ、冷え切った太ももの皮膚に張り付く。その不快感と、自分の意思では一ミリも制御できない「肉体という肉塊」の不条理さに、私は浅い呼吸を繰り返すしかなかった。
声を上げて怒ろうとしても、この細い喉からは、ヒステリックに震える高い吐息しか出ない。
弱さが、そのまま涙となって目尻からこぼれ落ち、冷たい床へと吸い込まれていく。
「お嬢様、毛布を」
闇の底から、マザルが音もなく近づき、泥と埃の染み付いた粗末な布を私の肩にかけた。
彼の十本の指先は、拷問によって爪がすべて剥がれ、黒く乾いた肉が剥き出しになっている。だが、彼はその激痛を一切 表に出さず、ただクリアな目で私の衰弱を観察していた。
「……マザル。あの上におられる、綺麗な聖女様や、汗をかかない学者様たちは、今頃どうしているかしら」
私は、喉の奥の乾いたひび割れから、皮肉混じりの声を絞り出した。
「王宮の最高会議は、実に見事な泥仕合を演じているようです」
マザルは、爪のない指を床に滑らせながら、平然と言った。
「アルフレッド王子が持ち帰ったお嬢様の『告白書』を前に、聖女は聖戦を叫び、財務顧問は数字でそれを圧殺している。彼らは自分たちの放つ『正しい言葉』の重みに耐えかねて、互いの皮膚をむしり合っている最中ですよ。隣国のブラド執政官も、予定通り国境沿いの配管を押さえにかかっています」
「そう……。本当に、滑稽ね」
私は冷え切った壁に、ミシミシと軋む細い背骨を預けた。
アルフレッドも、クラリスも、世界が自分たちの用意した綺麗な白図面の通りに動くものだと信じ込んでいた。だからこそ、その図面の隙間から溢れ出てくる「人間の生々しい欲」や「国際政治の冬の冷気」に直面した時、自分たちの肉体を維持するための酸素を見失う。
他者を糾弾するために研ぎ澄ませたその刃は、今や彼ら自身の口内をズタズタに裂き、内臓を切り刻んでいるのだ。
私は、自分の細く、骨の形が浮き出た手を見つめた。
あと、どれくらいの水分が、この器に残されているだろうか。
あと、何回、この不快な出血の重みに耐えれば、私の死は完了するだろうか。
前世の、武力だけで世界を統治しようとして無念の中に散った魔王の魂は、今、この脆弱極まりない少女の檻の中で、かつてないほどの静かな確信を得ていた。
世界を動かすのは、白く洗練されたクリーンなシステムではない。
泥をすすり、血豆を噛み潰し、それでも生きようとする人間の、その割り切れない不完全さの集積だけだ。
「マザル。最後まで、記録しなさい」
「御意に、我が主」
天井の隅から、再び水滴が落ちる。
ぽつり、と、冷たい床の油膜を広げるその音が、私たちの狭い檻の静寂の中に、いつまでも、いつまでも、消えない異物として沈殿していった。




