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最強の魔王、転生したら余命1ヶ月の悪役令嬢だった。  作者: あめたす


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第4話:氷の執刀医と、正義の吐血

第4話:氷の執刀医と、正義の吐血


 網膜の裏で、黒いカビのようなシミがじわじわと広がっている。

 光の粒が、押し潰された虫の死骸のように不規則に明滅していた。

 エルザという17歳の器は、もはや光を正確に捉えるだけの水分すら失いつつあるらしい。

 

 鉄格子の向こうで、軍靴の音が止まった。

 

 冷気が、監獄の湿った悪臭を硬く凍らせるようにして、どろりと部屋へ流れ込んでくる。

 入ってきた男には、男特有のねっとりとした脂の臭いも、香水の不快な甘さもなかった。ただ、冬の凍土をそのまま削り出したかのような、匂いのない冷たさだけがあった。

 

「ずいぶんと、乾いた部屋にいるな、エルザ・レヴェンタール」

 

 隣国の執政官、ブラドの声だった。

 その声音には、アルフレッドのような民衆を意識した劇場型の高揚も、ジークフリートのような身内を値踏みする湿った粘着質もない。

 まるで、手術台の上の死体を前にした執刀医が、メスの切れ味を確かめるためだけに呟くような、平坦な機能美。

 

 私は、生乾きの藁が背中に刺さる痛みを無視して、かろうじて首を動かした。

 視界の半分は黒いシミに食い荒らされていたが、彼の纏う軍服の、一切の無駄がない凍てついた直線だけは分かった。

 

「わざわざ、国境を越えて、死体の腐敗具合を観察しに来たのか」

 

 私の喉は、干からびた泥のひび割れのようにヒューヒューと鳴った。

 前世の、武力だけで世界を蹂躙していた頃の私なら、この男の首を指先一つでへし折っていただろう。だが、今の私には、この薄い囚人服の中でミシミシと鳴る、スカスカの鎖骨の重みに耐えるのが精一杯だった。

 

「死体には興味がない。私は、その死体が腐る前に遺す、配管の図面を買いに来た」

 

 ブラドは、私のベッドの傍らに音もなく歩み寄ると、手袋を嵌めたままの冷たい指先で、私の顎を乱暴に持ち上げた。

 男たちのねっとりとした憐れみも、傲慢な庇護欲もない。

 ただ、家畜の歯並びを調べるような、冷酷な利用価値だけの視線。

 それが、この少女の肉体の檻に自尊心を削られ続けていた私にとっては、奇妙なほど皮膚の粟立ちを鎮めさせた。この男だけが、私の魂の輪郭を、そのまま直視している。

 

「お前が失脚してから、王国の辺境は飢え始めている。アルフレッドの言う『構造改革』とやらは、実に見事な机上の空論だ。魔族への裏金を打ち切ったせいで、国境沿いの炭鉱はいつ暴動が起きてもおかしくない。海の向こうのジョルジュ教皇は、それを『聖戦の好機』と見て、分厚い肉塊のような軍隊を動かそうとしている」

 

「王子は、喜んで門を開くだろうな」

 

 顎を掴まれたまま、私は喉の奥からせり上がる血の泡を、静かに噛み潰した。

 口内に広がる、ぬるい鉄の味。

 

「開かせる。だが、その前に我が国がその炭鉱の三分の一を物理的に、切り取る」


 ブラドの指先が、私の頬の皮膚を冷たく圧迫する。「お前が魔族の残党と結んでいた『不拡散の密約』の、裏のルートを私に渡せ。お前の死後、その濁った水脈は我が国が管理する。引き換えに、ジョルジュの軍隊がこの国を貪ろうとした時、背後から圧力をかけてやる。王国が完全に消滅しない程度には、な」

 

「完了、させるためだな」

 

 私は、かすれた声で笑った。

 私はこの国を救いたいわけではない。ただ、王子たちの放つ、あの見ていて吐き気がするほど善良な「正しい言葉」によって、私の行ってきた泥の実務が、綺麗に消費されて終わるのが生理的に耐え難いだけだ。

 

「マザル」

 

「ここに、お嬢様」

 

 暗闇の隅で、爪の剥がれた十本の指を床に這わせたまま、マザルが音もなく応じた。彼の脳内ノートには、すでに隣国との新しいドブ板の配管図が、正確に書き込まれている。

 

「ブラド執政官に、すべてを。……これで、契約は完了だ」

 

 ブラドは、私の顎から1ミリの感傷もなく指を離すと、ドレスの裾が泥を吸う音すら立てずに、闇の中へ消えていった。

 あとに残されたのは、部屋の隅の埃が、冷気に吹かれて小さく舞う気配だけだった。

 

 長い沈黙の後。

 今度は、ブラドのそれとは対極にある、乱雑で、焦燥に満ちた足音が地下の回廊を走ってきた。

 

 バタン、と鉄扉が乱暴に跳ね上がる。

 

「エルザ……ッ!」

 

 現れたのは、アルフレッドだった。

 王太子の美しい金髪は生乾きの髪のように額に張り付き、その目は寝不足で赤く充血していた。

 彼の「中枢神経のキリキリとした過緊張」が、狭い牢獄の空気を物理的に震わせる。指先は小刻みに震え、仕立ての良い上着の胸元は、激しい呼吸のせいで不格好に波打っていた。

 

「なぜだ、なぜお前は、こんな場所でもまだ、国を売るような真似をする……!」

 

 王子の声は、ひどく掠れていた。大衆の熱狂という巨大な怪物のタクトを振り回し続けた代償が、彼の喉を確実に磨り潰している。

 

「ジョルジュ教皇の使節団が、我が国の内政に干渉してきた。辺境の炭鉱地帯を教会に明け渡さなければ、我が国を『魔族の協力者』として断罪すると……! 私が、民のためにどれほど正しい改革を進めても、世界は、数字は、少しも私の言う通りに動かない……!」

 

 アルフレッドは、私の粗末な藁ベッドの前に膝をつき、私の囚人服の胸元を掴もうとした。

 その瞬間、彼の皮膚から放たれる、あまりにも正しく、そして追い詰められた人間の生々しい汗の臭いが、私の鼻腔を突いた。

 私の皮膚が、生理的な拒絶反応で一斉に粟立つ。

 

「王子」

 

 私は、視覚の消えかけた目で、彼の激しく震える輪郭をただ見つめた。

 

「あなたの言う『正しさ』は、一体どこで採掘されたもの? レイモンドの乾いた数式の中? それとも、門外で手を叩いているギルバートたちの、あの軽い熱狂の中かしら」

 

「黙れ! 私は、私は間違っていない! お前たち旧体制の汚職をぶっ壊し、この国を洗練されたクリーンなシステムに生まれ変わらせる、そのために……!」

 

「クリーンなシステムには、泥が流れないのよ」

 

 私の細い、骨の浮き出た指先が、王子の震える手を静かに弾いた。

 

「私やバルザックが、どれほど泥をすすって、魔族に裏金を流し、国境のバランスを維持してきたか。あなたが綺麗に洗い流してしまったあの配管から、いま、どんな毒水が溢れているか、まだ分からないの?」

 

「お前が、お前さえいなければ……っ、私は、民を……!」

 

 アルフレッドが叫ぼうとした、その時だった。

 

 ゲホ、と。

 王子の口から、言葉ではなく、どろりとした赤黒い塊が飛び散った。

 

 大理石ではなく、監獄の冷たい泥床に、生々しい鉄の味が混ざった液体が飛び散る。

 王子は自分の口元を両手で押さえたが、指の隙間から、容赦なく熱い液体が溢れ出て、彼の白い、汗をかかないはずの衣類を汚していった。

 

 ストレスで荒れ果てた胃壁が、内側から安全ピンで掻きむしられたかのような、鈍い破綻の音。

 他者を糾弾し、切りつける言葉を発し続けた『正しさの永久機関』は、その発した刃によって、最終的に自らの内臓を物理的に切り刻んでいたのだ。

 

 王子は、自分の血の海を見つめながら、喉をヒューヒューと鳴らして激しく 喘いだ。

 

「お揃いですね、王子」

 

 私は、自分の喉の奥に溜まる血を静かに飲み込みながら、部屋の隅を這う虫の羽音を聞いていた。

 世界は綺麗な背景ではない。

 正しい人間も、汚い人間も、等しく磨り潰していく檻だ。

 

「マザル」

 

「ここに」

 

 マザルが、黒く固まった指先で、床に置いてあった古いインクの染みた羊皮紙をアルフレッドの足元に滑らせた。

 

「ジョルジュ教皇には、その告白書を差し出しなさい。すべての汚職、魔族との密約、隣国への利益誘導は、このエルザ・レヴェンタールが独断で行ったことだと、私の名前が正確に刻まれています」

 

 アルフレッドは、血に汚れた手で、その紙を凝視した。

 

「なぜ……、なぜ私を、新体制を救うような真似を……」

 

「勘違いしないで」

 

 私は、冬の冷気でミシミシと軋む背骨を、さらに深く壁に預けた。

 

「あなたを救うためではない。あなたが壊したドブ板の配管のせいで、門外のギルバートたちが明日食べるパンまで、ジョルジュの軍靴に踏み荒らされるのが、ただ、不愉快なだけ。私の遺す『濁った水脈』だけが、この国をシステムとして維持するのよ」

 

 王子は、もう何も言い返さなかった。

 彼が放ってきたすべての「正しい言葉」が、彼自身の口内をズタズタに引き裂き、自己嫌悪の血豆となって喉を塞いでいたからだ。

 

 アルフレッドは、ボロボロになった肉体を引きずるようにして、音もなく牢獄を去っていった。

 

 天井からは、絶え間なく不快な水滴が、ぽつり、ぽつりと冷たい床の油膜を広げて落ちていく。

 暗闇の底には、生乾きの藁の臭いと、誰かの浅い、擦り切れた呼吸の音だけが、溶けない異物として静かに沈殿していた。

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