第3話:剥がれた爪と、乾いた数式のひび割れ
第3話:剥がれた爪と、乾いた数式のひび割れ
監獄の壁は、絶え間なく地下の冷たい湿気を吸い、黒い苔の膜を広げていた。
背中を預けた石壁のざらつきが、薄い囚人服を通して、私の使い潰されつつある背骨に直接刺さる。
呼吸をするたび、カビの臭いと、肺の奥からせり上がってくる生暖かい鉄の味が混ざり合った。
トントン、と。
暗闇の向こうで、規則的な音が響く。
マザルが、爪の剥がされた指先を、冷たい床の泥に打ち付け続けている癖の音だった。
十本の指の先端は、すでに黒く固まった血の塊と化し、冬の冷気に晒されて不気味に腫れ上がっている。それでも彼の目は、濁った水底のように淀みなく、脳内のノートをめくっていた。
「地上は、ずいぶんと賑やかなお祭りが続いているようです、お嬢様」
マザルの声は、喉に砂を詰めたように低く、しかし驚くほど平坦だった。
拷問の激痛すら、彼は自らのインテリジェンスのソースとして、淡々と処理している。
「海の向こうから、聖教皇ジョルジュの使節団が、昨日、中央回廊に到着しました。『魔族の残党掃討』という絶対の正義を掲げ、国境沿いの炭鉱地帯に教会軍を駐留させろと、無理難題の外交圧力をかけてきております」
私は浅い呼吸を繰り返し、胃の底に溜まる鈍い重みに耐えながら、小さく笑おうとした。
だが、口から出たのは、ヒューヒューと鳴る細い気管の情けない擦れ音だけだった。
「アルフレッドは、どう応じた」
「『神の正義に国境はない』と、寝不足の充血した目で大衆に演説したそうです。門外のギルバートたちは手を叩いて歓喜した。しかし、財務顧問のレイモンドは、その日のうちに自室の鍵を閉め、冷え切った紅茶の表面に油膜が浮くのを、ただ見つめているとか」
レイモンド。あの激論の場にあっても一滴の汗もかかない、冷たい数理の神官の焦りが、目に見えるようだった。
ジョルジュの言う「正義」は、脳に分厚い脂肪を蓄えた無痛の肉塊が振り回す、ただの鈍器だ。
エルザという17歳の器に入る前、魔王であった私は武力だけで世界を従えようとし、結果として内側から分裂して崩壊した。だからこそ、この脆弱な肉体を得てからは、バルザックたち旧体制の脂ぎった手を使って、魔族の残党に裏金を流し、国境のバランスをギリギリで維持してきたのだ。
その「濁った水脈」を汚職として断罪し、綺麗に洗い流してしまった結果、王国は今、巨大な国際政治という剥き出しの冷気に対して、一枚の皮膚すら持たない無防備な肉塊と化していた。
「それだけではありません」
マザルが、黒く固まった人差し指を動かして、床の埃の上に細い国境線を引いた。
「隣国の執政官ブラドが、国境線の再画定を求めて、実質的な最後通牒を送ってきました。エルザお嬢様が結んでいた『不拡散の密約』が、あなたの失脚によって失効したと看破された。アルフレッド殿下の綺麗なワンフレーズでは、あの凍てついた機能美の軍靴を止めることはできません」
「当然だな」
私は、ドレスの成れの果てである生乾きの裾が、監獄の泥を吸ってねっとりと重くなっているのを指先で確かめた。
正しさだけで腹が膨れると信じている王子たちは、自分たちが壊したドブ板の配管から、どれほど毒混じりの汚水が溢れ出しているか、まだ気づいていない。
ゲホ、と大きな塊が喉を突き上げてきた。
反射的に口元を押さえたが、細い指の隙間から、どろりとした熱い液体が溢れて、白い手首を汚した。
おしろいの剥げた皮膚に、血の生臭い湿気と、特有の鉄の味がまとわりつく。
「お嬢様」
「構うな、マザル。ただの、不要な部品の排出だ」
内臓の奥が、濡れ雑巾のように雑に絞られる鈍い痛みが走る。
周期的な肉体の狂いか、それともこの華奢な器の寿命か。余命は残り、おそらく三週間もない。
だが、この肉体の崩壊と同期するように、地上の「美しい劇場」もまた、内側から激しくひび割れ始めている。
「新体制の足元は、すでに醜い共食いの泥沼です」
マザルは、自分の剥がされた爪の激痛を、まるで他人の家の埃の量を報告するかのような冷淡さで語り続けた。
「聖女クラリスが、回廊でレイモンドに掴みかかったそうです。『なぜ辺境の平民への救済予算を真っ先に削るのか』と。レイモンドは、汗をかかない白い顔のまま、ただ『数値上の持続可能性がない』と冷淡に突き放した。クラリスはヒステリックに叫び散らし、その拍子に、また自らの唇の裏の血豆を噛み潰して、大理石の床に生臭い血を吐いたとか」
クラリスの叫びは、大衆のルサンチマンを代弁して膨らんだだけの、中身のない薄い風船だ。
実務の数式を持たない彼女の「全肯定の善意」は、レイモンドの冷酷な原理主義の前には、ただの非効率な膿でしかない。彼女は他者を否定することでしか自らの存在を証明できない怪物だから、叩くべき「悪役令嬢」が監獄に消えた今、その鋭い牙を、身内の官僚組織へと向けざるを得ないのだ。
「オデット侯爵夫人は、どう動いている」
私は、喉の奥に溜まった血を、部屋の隅を這う虫の羽音を聞きながら、静かに飲み込んだ。
「あの緑の魔女は、すでにアルフレッド殿下を見限る準備を終えています」
マザルの声に、わずかな、皮肉な響きが混ざる。
「大衆の風向きが変わるのを、あの真空の身体は誰よりも早く察知する。新体制がもたらした『聖域なき構造改革』の不景気に喘ぎ、門外のギルバートたちが『前のエルザ様の時の方が、まだ泥混じりのパンが食えた』と、手のひらを返し始めた。オデット夫人は、世論のターゲットをエルザ様から、王子の『外交無能』へと移し替えるための、新しいフリップボードを美しく磨き上げています」
オデットは内側が完全な空洞の、他者の情動をストローで吸う発光植物だ。
彼女はドレスの裾に泥を1滴でも付着させることを、生理的に嫌悪する。
アルフレッドという、壊れかけた正しさの神輿が泥水を被って自滅する前に、彼女は1ミリの感傷もなく、次の有力な腕へと音もなく羽ばたくのだろう。
地上から届く、乾いたシステムの崩壊の音。
監獄の天井からは、絶え間なく不快な水滴が、ぽつり、ぽつりと冷たい床に油膜を広げて落ちていく。
世界は綺麗な背景ではない。
私たちをじわじわと檻の中に閉じ込め、磨り潰していく、不条理な構造そのものだ。
「ジークフリートは、どうした」
「あの重く曲がった背中は、さらに深く折れ曲がっていますよ」
マザルが、ふっと鼻で笑った。
「新体制の破綻を前に、彼は『すべてはアルフレッド王子の独断に、やむを得ず従わされていた』と言い回るための、古いインクが腐ったような書簡を夜通し量産しています。身内を売って生き残るトカゲの尻尾切り。しかし、その濡れ雑巾のような言葉も、大衆の白けた耳にはもう届かない」
誰もが自分を理解せず、自分の肉体と保身に振り回され、的外れな後悔をしながら泥をすすっている。
「マザル」
私は、自分の細い骨が、冬の冷気でミシミシと軋むのを感じながら、暗闇に声を落とした。
「ブラドの使者が、そろそろこの地下に潜り込んでくる頃だな」
「ええ。あの氷の帝国の執政官は、お嬢様の『最後の価値』を、手術台の上の死体を見るような目で、冷酷に計算しているはずです。男たちのねっとりとした憐れみも、傲慢な庇護欲も、そこにはありません」
「それでいい」
私は、自分の白い、感覚の消えかかった指先を見つめた。
王子たちの放つ、あの見ていて吐き気がするほど善良な「正しい言葉」に蹂躙されるくらいなら、ブラドの凍てついた医療器具のような利用価値だけで見つめられる方が、よほど救いがある。
私の魂の輪郭を、あの執刀医の視線だけが、そのまま直視してくれる。
遠くで、重い鉄格子の閉まる音が、空調の唸りのように低く響いた。
足音が近付いてくる。冷たく、一切の出力を狂わせない、洗練された軍靴の響き。
私たちの時間は、もうすぐ、完璧に完了する。
暗闇の底には、生乾きの藁の臭いと、誰かの浅い、擦り切れた呼吸の音だけが、溶けない異物として静かに沈殿していた。




