第8話:凍土のメスと、濡れ雑巾の言い訳
第8話:凍土のメスと、濡れ雑巾の言い訳
マザルの爪の剥がれた十本の指先が、床の湿った泥を捏ねるたび、硝石の匂いは徐々に、鼻腔の奥を刺すような冷たい鉄の臭いへと変質していった。
部屋の隅、冷え切った紅茶の表面に張った油膜が、地下の不気味な地鳴りに合わせて細かく震えている。その油膜の歪みを見つめているだけで、私の三半規管は不快な揺れを起こし、胃の底から酸っぱい液がせり上がってくるのを感じた。
視界の端が、焦げた障子紙のように不規則に煤け始めていた。
瞬きをするたびに、目の裏側で細かな砂粒が擦れ合うような嫌な痛みが走り、地下の薄暗い光が、どろりと濁って形を失っていく。エルザの肉体は、もう自らの血液を指先まで正しく押し出すだけの弾力を失っているのだ。微熱が頭蓋の奥で澱み、呼吸を吸い込むたびに、細い肋骨の噛み合わせがギチギチと乾いた音を立てた。
「……誰か、来ますね」
マザルは、剥き出しになった赤黒い肉芽を床の泥に擦りつけたまま、首を僅かに傾げた。彼の大きな耳が、地上から伸びる細い螺旋階段の奥で、湿った重い布が床を走るような摩擦音を捉えていた。
鉄格子の向こうの闇から、ぬるりと染み出すように現れた影は、物理的に重く前かがみに曲がった背中を、さらに小さくすぼめていた。宮廷筆頭魔術師、ジークフリート。長年、国家の暗部で私と共に汚い実務の配管を回し、解剖し、そして最初の津波が迫った瞬間に、真っ先に私を生贄として新体制へ差し出した老人。
彼が近づくにつれ、監獄の湿ったカビの臭いの中に、古いインクの酸っぱい臭いと、他者の陰口を吸い込み続けた人間の、粘り気のある体臭が混ざり始める。その臭いが鼻腔に届いた瞬間、私の皮膚の表面には、無数の小さな虫が這い回るような不快な粟立ちが走った。
「エルザ……」
格子の隙間から押し込まれた彼の声は、水分を多く含んだ濡れ雑巾のように、私の鼓膜へぬるりと張り付いた。
「すまない。私とて、派閥を、残された組織を守るためには、こうするしかなかったんじゃ。お前が辺境で動かしていた利権のすべてを、そのまま王太子へ差し出すしか、あの劇場の熱狂を逸らす方法はなかった……。お前なら、この老骨の選択を、組織維持のための合理として理解してくれると思っておった」
私は彼を見つめなかった。視線を、彼の煤けた革靴の先端から、一ミリも動かさない。
胸の奥に、怒りも哀れみも湧かなかった。ただ、彼の放つ「すまない」という言葉の、上辺だけを糊付けしたような軽薄さが、私の喉の奥にある鉄錆の味を、もう一度強く呼び起こすだけだ。
「謝る必要なんて、ないわ。ジークフリート」
私の細い声は、監獄の湿気に吸われて、掠れた虫の羽音のようになった。声を出すだけで、下腹部の奥にある、腐った果実のような生ぬるい鈍痛が、きりきりと引き連れる。
「あなたは組織という肉体を維持するために、最も壊れかけた部品を切り離した。ただの、正しい解剖でしょう。……それとも、その老いた背骨にかかる重みを、今さら私の死顔に分け与えにでも来たの?」
ジークフリートの、古いインクの染みた指先が、格子の鉄を掴んでカチカチと不規則な音を立てる。その爪の生え際は、新体制への恐怖からか、血の気が引いて白く硬直していた。長年、ドブ板の交渉で他者を呪い呪われてきた老人の体は、すでに内側から腐敗が始まっているかのように、どこか湿った重さを湛えている。
「……地上は、もう滅茶苦茶じゃ」
老人は、自らの喉に詰まった湿った痰を吐き出すように、せわしなく言葉を溢れさせた。
「王太子アルフレッドは、今や登壇するたびに、上着の裏で自分の脇腹を、皮膚が裂けるまで掻きむしっておる。民衆の歓声という名の劇薬がなければ、あの男の過緊張を起こした中枢神経は、もう自立を維持できんのだ。彼が演説で『クリーンな改革』と叫ぶたび、その口内からは胃酸の酸っぱさが溢れ、白い歯の根元を黒く溶かし始めている。聖女クラリスも、身内の官僚を『汚職の残党』と罵りすぎて、ついに組織の中で孤立した。彼女の噛み潰した舌の裏からは、もう言葉ではなく、膿混じりの粘液しか出ん」
綺麗事で編まれたシステムは、機能不全を起こすと、まずその身内の肉体から食い荒らし始める。
「レイモンドの弾いた算盤も、海の向こうのジョルジュ教皇の放つ、分厚い聖書の重さで叩き割られた。非効率な辺境を切り捨て、お前が魔族との間に結んでいた『濁った水脈』を汚職の膿として破棄した結果、魔族の残党は暴徒化し、教皇は『全面戦争』を掲げて我が国の国境線へ土足で踏み込んできた。ジョルジュ教皇の脳を包む分厚い脂肪には、我が国の繊細な外交バランスなど、一ミリも認知されん。ただの『無痛の肉塊』が、新体制のクリーンな庭を更地にしようとしておる。……オデット侯爵はすでに、王子を見捨てる準備を始めておる」
ジークフリートの言葉は、的外れな後悔と、自らの選択を「仕方がなかった」と思いたいための都合の良い言い訳で肥大していた。彼は、私のボロボロになった肉体を見て、自らの老いた保身の正当性を確認し、冷え切った心を温めたかったのだ。自分が犯した裏切りというドロドロとした感触を、私の「理解」という乾燥剤で拭き取りたがっている。
「見当違いな言い訳ね」
私は、下着を重く湿らせていく不規則な出血の不快感に、僅かに眉をひそめた。
「あなたが今さらここへ来たのは、自分の選択が『正しかった』と、私の死に顔を見て安心したかったから。でも残念ね。この十七歳の器は、あなたの濡れた雑巾のような言葉に、一滴の涙も流せないわ。……早く行きなさい。あなたのその古いインクの臭いが、私の浅い肺をこれ以上汚さないうちに」
ジークフリートは、自分の裏切りすら私の冷徹な解剖のメスで切り開かれ、その先の破滅まで見透かされていることに気づき、喉をヒューヒューと鳴らしながら、這うようにして暗闇の奥へ消えていった。彼の引きずる足音が完全に消えた後、残されたのは、部屋の隅の埃が空調の唸りに合わせて舞う、不快な静寂だけだった。
——その時だった。
監獄の空気が、不自然に、そして暴力的な速度で冷え込んだ。
壁の割れ目から染み出す水滴が、床に落ちる前に白い結晶へと変わり、ピキピキと微細な音を立てて凍りついていく。私の吐き出す息が、一瞬にして白い塊となって空間に霧散した。あまりの寒冷に、肺の肺胞が一つずつ凍りついていくような、刺すような痛みが胸の奥を走る。
マザルの描いた泥の術式が、青白い光を放って、その凍土の真ん中で音もなく弾けた。
「……随分と、不衛生な寝床だな」
影の中から、衣擦れの音すら立てずに現れたのは、隣国の執政官、ブラドだった。
彼の纏う厚い上着には、大陸の北端の、一切の腐敗を許さない冬の乾いた冷気が染み付いたまま残っていた。ジークフリートのような湿った粘り気は一ミリもない。
彼の顔には、加齢による脂も、感情の震えによる皮膚の弛みも一切なかった。完璧にメンテナンスされた、冷たい医療器具のような機能美。激論の場にあっても一切の汗をかかないというその指先は、まるで戦場を淡々と片付ける執刀医のようだった。アルフレッドのようなねっとりとした憐れみの視線も、ここには存在しない。
「氷の帝国の覇王が、わざわざドブネズミの檻に何の用かしら」
私は、冷え切った上着の襟を、細い指でかき集めた。声を出すだけで、細い鎖骨の噛み合わせがギチギチと嫌な音を立てる。
ブラドの凍てついた視線が、私の細い首筋、皮膚の下を走る青く透ける静脈、放置されたままのドレスの裾に滲む血の汚れを、ただの「数値」として網膜に焼き付けていく。そこには男たちが向けるようなねっとりとした庇護欲や、支配を目的とした視線の体温は一切なかった。ただ、肉体の不全という事実をそのまま見つめる、冷徹な光だけがあった。
「悪女の魂が、そんな不良品の肉体に収まっていると聞いて、確かめに来た。残り二週間の命だそうだな、エルザ・レヴェンタール」
「不良品で結構よ」
私は喉のひび割れた粘膜を震わせ、冷たい息を吐き出した。
「でも、この細い骨が冬の冷気で軋む音の方が、地上の王子たちの空っぽな演説よりも、ずっと確かな質量を持っているわ。……あなたがわざわざここに来たのは、その凍った数式に、私の遺産を組み込むためでしょう?」
ブラドは、感傷の回路を完全にバイパスした目で、私を見下ろした。彼の手元からは、凍った鉄のような、あるいは消毒液のような、一切の生活感のない匂いが漂ってくる。その匂いは、地下牢のカビ臭さを一瞬にして押し潰し、私の感覚を過酷なまでにクリアに研ぎ澄まさせた。
「我が国は、国境の炭鉱地帯を要求する。新体制のクリーンな脳髄どもは、外圧の重さに耐えかねて、数日中にその土地を差し出すだろう。だが、私はお前が辺境に敷いた、あの『濁った利権の水脈』をそのまま引き継ぎたい。あれがなければ、あの土地の平民どもは冬を越せずに餓死する。……お前が泥をすすって作った配管だ。数式としては非常に汚いが、機能としては完璧だ」
「……いいわ」
私は、肺の底から競り上がってくる、鉄錆の味を伴う激しい咳を、手のひらで強く押さえ込んだ。
ゲホ、と短い塊が、私の白い手のひらに赤い斑点を作る。ぬるりとした液体の感触が、皮膚の皺に沿って広がっていく。ブラドはその血を避けることもせず、ただ執刀医のように冷徹に、私の顔を凝視し続けた。彼の視線に晒されている間だけは、不思議と、女の肉体の檻に自尊心を削られているという惨めさが消え去っていく。彼は私を「守るべき矮小な存在」ではなく、対等な交渉相手として解剖しているのだ。
「炭鉱の底に眠る、魔族との密約の書類のありかを教えてあげる。ただし、レイモンドの弾いた算盤を、あなたのその凍ったメスで、木端微塵に叩き割って。アルフレッド王子が、自分が発した綺麗な言葉の刃で、自らの精神を内側から細切れにする姿を、特等席で見せてあげるのなら」
「容易いことだ。元より、あの男の砂上の楼閣など、冬の一吹きで崩壊する」
ブラドの凍りついた指先が、私の冷え切った額に、一瞬だけ触れた。
その皮膚感覚には、愛撫の体温など一ミリもなかった。ただ、凍った鉄を押し付けられたような強烈な不快感と、同時に、自らの肉体の檻を飛び越えて、私の形をそのまま直視されるような、過酷な冷たさがあった。額から脳髄へと突き抜けるその冷気は、私の内臓の鈍痛を一瞬だけ麻痺させる。
言葉は少しだけ噛み合わないまま、利害の骨組みだけが淡々と噛み合っていく。本音を言い切る前に、私の喉は再び鉄の味でつかえ、沈黙が二人の間に落ちた。マザルは黙って、その冷たい契約の術式を、十本の爪のない肥大した指先で床の泥に刻み込んでいた。彼の脳内ノートには、地上の新体制が自滅していくカウントダウンが、確かな質量を持って記録されていく。
ブラドは、用が済むと、衣擦れの音すら残さずに闇の中へ霧散した。
後に残されたのは、さらに温度の下がった、凍りついた地下牢の静寂。壁の割れ目から染み出す水滴は、もう床に届く前に凍りつき、小さな氷の棘を無数に作っている。部屋の隅では、空調の唸りのような地下の地鳴りが、変わらず断続的に響いていた。
世界は綺麗な背景ではない。
私を、そして地上で踊る哀れな人形たちをすり潰すための、巨大な檻だ。
私は、ミシミシと鳴る細い背骨を再び冷たい壁に預け、暗闇の奥を見つめた。
下腹部の鈍い重みが、私の意識をこの泥の現実に繋ぎ止めている。私はこの檻の底から、自らの死が完璧に完了するその瞬間まで、静かに、彼らの放った正しい言葉が彼ら自身の肉体を切り刻んでいく様を、解剖医の目で凝視し続けるだけだ。




