【アイゼンハワー・マトリクス】命を守るタスク管理 3/5
「――助けてくれ!! 誰か、至急だ!!」
ギルドの重厚な扉がバンッと乱暴に開かれ、血相を変えた中堅冒険者が転がり込んできた。
カウンターの隅で丸くなって昼寝をしていた、ギルドの飼い猫である長毛種の大きな猫が、その大きな音に驚いて「ニャアッ!」と毛を逆立てて逃げていく。
「どうしました!? 落ち着いてください!」
アリサがカウンターから身を乗り出すと、その冒険者――革鎧を着た剣士は、息を荒げながら叫んだ。
「俺たちのパーティーの荷物持ちが、北の『木霊の洞窟』で落とし穴の罠に落ちた! 深くてロープが届かなくて、しかも穴の底から魔物の羽音が聞こえるんだ! 早く救助隊を呼んでくれ!」
「っ……! 荷物持ちの方は、お怪我は!?」
「わからん! あの出来損ないが、足元もろくに見てなくて……とにかく、今すぐ助けに行かないと魔物に食われちまう! 至急だ!!」
『至急』。
その言葉がギルド内に響き渡った瞬間、アリサとカイルの脳裏に、先ほどシレーヌが紙に書いた四つの箱が鮮明に浮かび上がった。
――人の命に関わる。そして、一刻を争う。
これは間違いなく、一番右上の箱。【重要かつ緊急】な最優先事項だ。
「カイル!」
「わかってる! 俺の通信魔法で、北のエリアを巡回している防衛隊に直接連絡を入れる! アリサは洞窟のマップを出してくれ!」
カイルは杖を構え、目を閉じて高度な通信魔法の詠唱に入った。アリサもすぐさま背後の棚から『木霊の洞窟』の図面を引っ張り出そうとした、その時だった。
「おいコラ!! さっきから待ってるんだが、俺の支払いはどうなってんだ!!」
バンッ!! と、カウンターが強く叩かれた。
見ると、先ほどシレーヌに追い返されたはずのポーション商人が、顔を真っ赤にして再び怒鳴り込んできたのだ。
「書類の日付が間違ってるだと!? ふざけるな、そっちの事務手続きの遅れだろうが! 今すぐ現金を出せ! こっちも次の仕入れがあって『至急』なんだよ!!」
商人の大声に、集中しかけていたカイルの杖の先から、プスリと魔力の光が消えかかった。
「あっ……ちょ、ちょっと待ってください! 今、通信魔法を……!」
「知るか! こっちだって生活がかかってんだ、後回しにすんな!!」
さらに最悪なことに、商人の怒声につられるように、出発待ちをしていた他の冒険者たちも文句を言い始めた。
「なぁ受付! 俺たちのクエスト承認印もまだかよ! 昼までに出発しないと予定が狂うんだよ、こっちも至急頼むぜ!」
「そうだそうだ! こっちを先に終わらせてくれ!」
再び、ギルド内に『至急』の嵐が吹き荒れる。
人の命がかかっている通信魔法に集中しなければならないカイルの顔に、みるみると焦りの色が浮かんでいく。このままでは、先ほどの書類の山と同じだ。すべてを同時にやろうとして、一番重要な【命を救うタスク】が失敗してしまう。
――だめだ。カイルの集中を途切れさせちゃいけない。
アリサはギュッと拳を握りしめ、シレーヌの言葉を思い出した。
『世の中の至急の9割は、本当は至急じゃない。誰かが自分の都合で急いでいるだけ』。
アリサはカウンターの上の羊皮紙――四つの箱が書かれたマトリクス表をバンッと叩いた。
「カイル! 通信魔法だけに集中して! 周りの声は一切無視していいから!」
「で、でもアリサ! 商人さんが……!」
「右上の箱(重要かつ緊急)はカイルがやって! 右下の箱(重要ではないが緊急)は、私が全部引き受ける!!」
アリサの迷いのない声に、カイルはハッと息を呑み、力強く頷いた。彼は耳を塞ぐように両手を杖に添え、再び深い詠唱へと入っていく。
アリサはすぐさま、怒り狂う商人の正面に立った。
そして、シレーヌから授かった第1の魔法『PREP法』を、自分を落ち着かせるための呪文として心の中で唱える。
「商人さん。大変申し訳ありませんが、今すぐのお支払いは【絶対に】できません」(P:結論)
「なんだと!? ふざけるな、ギルドの信用問題だぞ!」
「現在、冒険者の命に関わる緊急救助通信を行っているからです。この通信の魔力干渉を避けるため、他の業務はすべてストップする規則になっています」(R:理由)
「もし今、私が金庫を開けてお支払いの手続きをすれば、カイルの魔法の集中が途切れ、洞窟に取り残された若い冒険者が魔物に殺されてしまいます。商人さんも、自分の支払いのせいで人が死ぬのは本意ではないはずです」(E:具体例)
アリサの真っ直ぐで毅然とした言葉に、商人はウッと言葉を詰まらせた。
「ですので、お支払いはできません。ですが、午後三時にもう一度いらしてください。その時間帯であれば、私が責任を持って、一番最初に商人さんの手続きを完了させます」(P:結論)
代案付きの完璧な『結論』。
商人は舌打ちをしながらも、周りの冒険者たちの目がある手前、それ以上無理を言うことはできなかった。
「……チッ。わかったよ! 午後三時だな、一秒でも遅れたら承知しねえからな!」
商人はドカドカと足音を立ててギルドから出ていった。
アリサはすぐさま、承認印を待っている冒険者たちに向き直った。
「皆様も、お待たせして申し訳ありません! ですが、印を押すだけの作業であれば、私が皆様のテーブルを回って今すぐこの場で処理します! ですから、カウンター前からは離れて、通信魔法の邪魔にならないようお静かにお願いします!」
アリサの的確な指示と気迫に圧され、文句を言っていた冒険者たちも「お、おう」「わかったよ」と大人しくテーブルへ戻っていった。
ギルド内に、再び静寂が戻る。
邪魔なノイズが完全に消え去った空間で、カイルの杖の先がまばゆい光を放った。
「……繋がった! 北の防衛隊、聞こえるか! 『木霊の洞窟』第3層の落とし穴だ、至急救助を頼む!!」
カイルの声が通信機越しに響き、すぐさま「了解した、部隊を急行させる!」という力強い返答が返ってきた。
十分後。防衛隊から「対象者を無事救出、魔物も討伐した」という報告が入り、救助を要請しに来た剣士はボロボロと泣きながらアリサとカイルに何度も頭を下げた。
嵐が去ったカウンターで、アリサとカイルはへなへなとその場に座り込んだ。
「……やった。間に合った……」
「ああ。アリサ、お前すごいな。あの商人を一人で追い返すなんて」
「私じゃないよ。シレーヌ先輩の魔法の箱のおかげ。……【重要だけど緊急じゃない仕事】を後回しにするだけじゃなくて、【緊急だけど重要じゃない仕事】を断る勇気。それが、この箱の本当の力だったんだね」
アリサが手元のマトリクス表を見つめていると、頭上からパチパチと静かな拍手の音が降ってきた。
見上げると、腕を組んだシレーヌが、満足げな笑みを浮かべて二人を見下ろしていた。




