【アイゼンハワー・マトリクス】命を守るタスク管理 4/5
「見事な捌きだったわ、二人とも」
シレーヌの静かな拍手に、アリサとカイルは顔を見合わせた。
怒り狂う商人を論理的に後回しにし、冒険者の命を救う通信魔法を最優先で成功させた。カイルは安堵の息を吐き、杖をカウンターに置いた。
「シレーヌ先輩の言う通りでした。全部を『至急』だと思って同時にやろうとしてたら、絶対にあの通信魔法は失敗してましたよ。……あー、疲れた! 嵐が去ったって感じだ!」
「本当だね。大きな危機を乗り越えた気がする……」
カイルが大きく伸びをし、アリサもホッと肩の力を抜いた。
しかし、シレーヌは腕を組んだまま、冷ややかな視線を二人の手元へと向けた。
「危機を乗り越えた? 馬鹿なことを言わないで。あなたたちが今やったのは、目の前で燃え上がった火を慌てて消しただけよ」
「えっ?」
「右上の箱、【重要かつ緊急】な仕事。これは誰だって必死にやるの。問題はその次よ。アリサ、今のあなたたちが一番やらなければならない仕事は、四つの箱のうちどれ?」
アリサはハッとして、カウンターに置かれたマトリクス表を見た。
右下の【緊急だが重要ではない】箱(商人の支払いなど)は、午後三時以降に時間を指定して後回しにした。左下の【重要でも緊急でもない】箱は、そもそもやらなくていい。
「……左上の箱。【重要だが、緊急ではない】仕事、ですか?」
「正解よ。多くの人間は、右上の『炎上している仕事』を片付けると、満足して休んでしまう。でも、ギルドの未来を守るのは左上の箱なの。火種が小さなうちに潰しておけば、そもそも炎上(緊急事態)なんて起きないのだから」
シレーヌはそう言い残すと、颯爽と自分の業務へと戻っていった。
残された二人は、仕分けられた書類の山の中から【重要だが緊急ではない】箱に分類した束を見つめた。
その一番上にあったのは、『地下備蓄庫の定期点検および結界石の確認』という書類だった。来週予定されている、ギルド本部からの定期監査のための準備資料だ。
「地下の点検かぁ……。カイル、これ今からやっちゃわない?」
「ええっ!? アリサ、本気? それ、期限は来週の金曜だぜ? まだ十日も先じゃないか。それに地下の点検なんて、埃っぽくて時間もかかるし……明日以降にしようよ。俺たち、さっきの通信魔法でヘトヘトだしさ」
カイルの言うことも尤もだった。疲労している時に、急ぎではない面倒な作業などやりたくないのが人間の心理だ。
――でも、シレーヌ先輩は言っていた。
『後回しにして期限の前日になった瞬間、それはあなたの首を絞める炎の魔物に変わる』と。
「カイル。今日やらないってことは、きっと明日も明後日もやらないよ。そして来週の木曜日の夜に、今日みたいに他の『至急』の仕事が飛び込んできたらどうするの?」
「うっ……それは……」
「何も起きていない『今』だからこそ、やるの。備蓄庫の確認なら、魔力のない私でもできるから。カイルはここで休んでていいよ」
アリサがランプを片手に地下への階段へ向かうと、カイルはバツが悪そうに頭を掻き、「……わかったよ、俺も行く。暗い地下は魔法の明かりがあった方がいいだろ」とついてきた。
ギルドの地下備蓄庫。
そこは、王都が魔物の大規模襲撃を受けた際に、ギルド職員や市民が籠城するための大量の保存食やポーションが保管されている重要な場所だ。
カイルの杖の先から放たれる光の魔法が、薄暗い空間を照らし出す。
「うわ、埃だらけ。前の点検から半年以上誰も入ってないんじゃないか?」
「帳簿によると、ポーションの木箱が五十ケース、保存食が百ケース……それから、部屋の四隅に防魔の『結界石』があるはずなんだけど……」
アリサがバインダーに目を落としながら奥へ進んでいった、その時。
足元から、ズルリ、と異様な音がした。
「カイル、待って。何か音が……」
カイルが杖の光を部屋の最奥に向けた瞬間、二人は息を呑んだ。
巨大な木箱の山が、ドロドロに溶けて崩れ落ちていたのだ。そして、その溶けたポーションと木材の残骸を咀嚼するように、巨大な緑色のスライムが蠢いていた。
「な、なんだあれ!? 強酸性のアシッド・スライム!?」
「静かに……! スライムの奥を見て。部屋の角にあるはずの『結界石』が、完全に溶かされてる……!」
ギルドの地下を守る結界石が一つでも破壊されると、地下水脈から微小な魔物が侵入してしまうことがある。このスライムは、結界石の綻びから侵入し、半年間誰にも気づかれることなく、非常用のポーションを栄養にして巨大化していたのだ。
「や、やばいぞ! あの強酸で建物の基礎の柱まで溶かしかけてる! もしあの柱が折れたら、ギルドが一階から崩落するぞ!!」
カイルがパニックになり、杖に強力な炎の魔力を込め始めた。
「俺の魔法で一気に焼き払う! アリサ、下がってろ!」
「ダメ!! ストップ、カイル!!」
アリサは咄嗟にカイルの杖を押さえ込んだ。
カイルは目を丸くしてアリサを見た。
「なんで止めるんだよ! 早くしないと柱が!」
「落ち着いて、あのスライムをよく見て。動きがすごく鈍い。ポーションをお腹いっぱい食べて、今は休眠状態なのよ」
「休眠状態……?」
「もしカイルがここで下手に炎の魔法を撃ったら、スライムが暴れて酸を撒き散らすわ。それに、地下の密室で爆発を起こしたら、それこそ基礎の柱が吹き飛んでギルドが崩壊しちゃう!」
アリサの指摘に、カイルはサァッと青ざめた。パニック状態で『緊急』だと錯覚し、またしても最悪の選択をしようとしていたのだ。
「いい、カイル? これは【重要かつ緊急】なトラブルじゃないわ。私たちが期日よりずっと早く発見できたおかげで、【重要だけど、まだ緊急ではない】状態なの。時間はある。冷静に、確実に処理できるわ」
アリサの落ち着いた声が、カイルの震えを止めた。
「カイルはここに残って、スライムが動かないか監視してて。私は上に上がって、バルトス支部長に『PREP法』で報告してくる。酸を中和できるアルカリ系の魔法使いと、氷結魔法の使い手を連れてくるから」
「……わかった。頼む、アリサ」
十分後。
アリサの完璧で簡潔な報告を受けたバルトス支部長が、氷結魔法の専門家たちを連れて地下へ降りてきた。
休眠状態のスライムは、抵抗する間もなく完全に凍結され、安全に粉砕処理された。ギルドの崩落危機は、誰にも知られることなく、無音のうちに解決したのだ。
「……よくやった、二人とも」
凍りついたスライムの残骸の前で、バルトス支部長は重々しく口を開いた。
「もしお前たちが、この点検を来週の監査ギリギリまで後回しにしていたら。スライムはギルドの基礎を食い破り、昼間の冒険者でごった返している時間帯に建物が崩落していたはずだ。考えただけでもゾッとする」
支部長の言葉に、アリサとカイルは顔を見合わせ、安堵の笑みを浮かべた。
「シレーヌ先輩の言っていた通りでした。【重要だが緊急ではない】仕事こそが、本当の意味で未来の命を守るタスクだったんですね」
薄暗い地下室で、アリサは自分のバインダーをギュッと抱きしめた。
言葉の魔法に続き、時間と仕事を支配する第2の魔法が、確かに自分の血肉となったのを感じていた。




