【アイゼンハワー・マトリクス】命を守るタスク管理 2/5
シレーヌがカウンターに置いた羊皮紙には、インクで大きく『十』の字が引かれ、四つの空白の領域(箱)が作られていた。
「覚えなさい、アリサ。そしてカイル、あなたもよ」
シレーヌは二人に冷ややかな視線を向けながら、羽ペンの先で羊皮紙の縦線をなぞった。
「この縦の線は『重要度』を表すわ。上にいくほどギルドの存続や人の命に関わる重要なこと。下にいくほど、どうでもいいこと」
「重要度……」
「そして横の線は『緊急度』。右にいくほど今すぐやらなければならないこと。左にいくほど、時間的に余裕があること」
シレーヌは流れるような筆記体で、四つの箱にそれぞれ文字を書き込んでいった。
右上の箱:【重要かつ緊急】
左上の箱:【重要だが緊急ではない】
右下の箱:【重要ではないが緊急】
左下の箱:【重要でも緊急でもない】
「これが『四つの箱の魔法』。別名、アイゼンハワー・マトリクスと呼ばれる思考の型よ。仕事が溢れてパニックになった時は、すべての仕事をこの四つのどれかに放り込むの」
アリサは真剣な顔で羊皮紙を覗き込んだ。
「でも、シレーヌ先輩。さっきの書類には全部『至急』ってスタンプが押してありました。それだと、全部が右上の【重要かつ緊急】の箱に入っちゃう気がするんですけど……」
「そこが素人の陥る一番の罠よ、アリサ」
シレーヌは呆れたようにカイルを見た。カイルはバツが悪そうに視線を逸らした。
「多くの人は『緊急度』と『重要度』を混同するの。声が大きい相手、スタンプが赤い書類、すぐ目の前で起きているトラブル……そういうものは全部【緊急】に見えるわ。でも、それは本当に【重要】かしら?」
シレーヌは、カイルが先ほどまで必死に処理しようとしていた書類の束を指差した。
「例えば、さっき外で怒鳴っていたポーション商人の支払い請求書。あれは確かに『今すぐ金を出せ』と急かされていたから【緊急】よ。でも、支払いが一日遅れたところで、誰も死なないし、ギルドが潰れるわけでもない。だからこれは右下の箱、【重要ではないが緊急】な仕事よ」
「えっ……でも、怒鳴られてましたよ?」
「怒鳴らせておけばいいのよ。声の大きさに惑わされてはいけないわ。逆に、バルトス支部長が急いでいた『未知の魔毒の生態記録』はどう?」
「あ、それは……解毒剤を作らないと人が死ぬかもしれないから、【重要】ですし、今すぐ送らないといけないから【緊急】です!」
「正解。それが右上の箱、【重要かつ緊急】の仕事。ギルドの心臓とも言える最優先事項よ。さっきのカイルは、この『重要ではない請求書』と『命に関わる生態記録』を、同じ【至急】という言葉だけで同列に扱おうとして自滅したの」
カイルは顔を真っ赤にしてうつむいた。魔力エリートである彼にとって、自分の判断ミスを的確に指摘されるのは屈辱だろうが、反論の余地はなかった。
「……じゃあ、来週のギルド本部からの定期監査の準備資料は?」
カイルがぽつりと呟いた。
「あれを出さないと、本部に目をつけられて支部の予算を削られる。予算が減れば買える薬草も減って、遠回しに冒険者の命に関わる……だから【重要】だ。でも、期限は来週だから、今すぐじゃない」
「その通りよ、カイル」
シレーヌは初めて、ほんの少しだけ口角を上げた。
「それが左上の箱、【重要だが緊急ではない】仕事。実は、ここが一番厄介なの。人間はどうしても目の前の『緊急なこと』に振り回されて、この『緊急じゃないけど重要なこと』を後回しにしてしまう」
「あっ……!」
アリサはハッと息を呑んだ。
「後回しにして、期限の前日になってから慌てて徹夜でやる……ってことですか?」
「そう。そして徹夜でやるハメになった瞬間、それは【重要かつ緊急】の箱に移動して、あなたたちの首を絞める炎の魔物に変わるの。ギルドが常に炎上している理由は、この左上の箱をサボっているからよ」
シレーヌの言葉は、まるで鋭い氷の刃のように二人の胸に突き刺さった。
アリサは床に散らばった書類の山を見下ろした。さっきまでは手をつけるのも恐ろしい巨大な壁に見えていたのに、今は不思議と、ただの紙切れの集まりに見える。
「さあ、理屈が分かったなら実践よ」
シレーヌはパンッ! と手を叩いた。
「今から魔法は使用禁止。カイル、アリサ。あなたたちの手で、この床に散らばった書類を四つの箱に仕分けなさい。『至急』のスタンプの赤色に騙されないこと。本当に命に関わるものはどれか、自分の頭で見極めるのよ」
「「はいっ!!」」
二人は床に這いつくばり、書類を一枚ずつ拾い上げては仕分けを始めた。
「討伐依頼の受付! これはすぐに出発したい冒険者が待ってるし、ギルドの基本業務だから【重要かつ緊急】だね!」
「待ってカイル、この冒険者、よく見たら提出書類のサインが漏れてるよ。自分で書かせるだけだから、緊急だけど私たちが焦るほど重要じゃないかも……【重要じゃないが緊急】の箱じゃない?」
「なるほど……じゃあ、これは? 先月分のインクの消費量調査。本部に提出するやつだけど、期限は月末」
「それは【重要だけど緊急じゃない】箱だね! 監査の準備と一緒にやろう!」
カイルの魔力は一切使っていない。ただアリサと二人で声を掛け合い、判断基準を共有して振り分けていくだけだ。
しかし、そのスピードは先ほどカイルが一人で魔法を暴走させていた時よりも、遥かに速く、そして正確だった。
十分後。
あんなに巨大だった書類の山脈は、四つの整然とした山に生まれ変わっていた。
「……終わった。嘘だろ、あんなにあったのに」
カイルが信じられないといった顔で、一番右上の【重要かつ緊急】の山を見た。そこにある書類は、全体のわずか二割にも満たなかった。
「今すぐやらなきゃいけない本当の仕事って……これだけだったんだ」
「ええ。残りの八割は、人に任せるか、明日以降に計画を立ててやればいいだけの幻影よ」
シレーヌが静かに告げた。
アリサは胸をなでおろした。四つの箱の魔法は、相手を説得するのではなく、自分の心に余裕を作り出す魔法だったのだ。
「よーし、今すぐやるべき仕事がこれだけなら、俺の魔法で一瞬で終わらせてやる!」
カイルが腕まくりをして、得意げに杖を構えようとした、その時だった。
「――助けてくれ!! 誰か、至急だ!!」
ギルドの扉が激しく開き、血相を変えた中堅冒険者が転がり込んできた。
「俺たちのパーティーの荷物持ちが、ダンジョンの罠に落ちた! 救助隊を呼んでくれ! 今すぐだ、早く!!」
ギルド内の空気が一瞬で凍りついた。
アリサの心臓がドクンと大きく跳ねる。
冒険者の命に関わる。そして、一刻を争う。
間違いなく【重要かつ緊急】な、最優先事項の飛び込み依頼だ。




