第13話「九尾の厄災」
封印陣の前に立って、状況を確認した。
亀裂は大小合わせて十七箇所。そのうち三箇所は封印の核に達しかけている。
退魔師団が修繕を試みた跡が残っていたが、術式の層構造を理解せずに触ったせいで、かえって亀裂を広げてしまっている。
「……これは、簡単にはいかない」
私は封印陣の中央に座り、両手を地面につけた。
封印に霊力を流し込みながら、術式の状態を読み取っていく。
『小娘。来たか』
玉藻さまの声が、封印の内側から響いた。
その声には、隠しきれない疲労が滲んでいた。
「玉藻さま、長い間押さえていてくださったんですね。ありがとうございます」
『礼はいらぬ。さっさと直せ。わしはもう疲れたぞ』
いつもの減らず口に安心する。でも、声に元気がないのが気にかかった。
「ハヤテ、入口を頼みます。誰も中に入れないで」
「わかった」
ハヤテが地下の入り口に立つ。
コハクは私の膝の上に丸くなった。コハクを通じて、玉藻さまの霊力を封印に補填できる。
「始めます」
封印の遠隔維持に回していた霊力を、一気に手元に引き戻す。
全身に霊力が満ち溢れた。
七割の封じを解いた私の霊力は──退魔力に換算すれば、千をゆうに超える。
亀裂の修繕を開始した。
術式を一層ずつ読み解き、綻びを繕い、新たな層を重ねていく。
祖母から受け継いだ封印の指南書の技法と、八年間の経験を総動員する。
一箇所、二箇所、三箇所──。
順調に修繕が進む。集中力を切らさないよう、呼吸を整えながら作業を続けた。
だが──十二箇所目の亀裂を修繕しようとしたとき。
封印の奥底から、巨大な衝撃波が走った。
「っ!」
弾き飛ばされそうになるのを、必死で堪える。
封印の中から溢れ出す妖気の質が、一変していた。
先ほどまでの玉藻さまの穏やかな気配ではない。これは──。
『──グルルルルッ!』
獣の唸り声。
理性を失った、純粋な暴威。
「玉藻さま!?」
『小娘……すまぬ……もう……抑えきれ──ぐおおおおおおっ!!』
玉藻さまの声が、咆哮に変わった。
三百年の封印で抑え込まれていた本能──大妖としての破壊衝動が、玉藻さまの理性を食い破ろうとしている。
「玉藻さま! しっかりして!」
封印陣全体が激しく明滅し始めた。
地面が揺れる。天井から砂埃が落ちてくる。
「ツムギ!」
ハヤテが駆け寄ってきた。
「封印が崩壊しかけている……!」
「見ればわかる! お前は──」
言いかけたハヤテの言葉を遮るように、封印陣の中心から黒と金の光が噴き上がった。
光が収まったとき。
封印陣の中央に、巨大な影が立っていた。
金色の毛並み。九本の尾。
燃えるような金の瞳が、地下空間を照らしている。
九尾の厄災──玉藻。
その姿は圧倒的だった。
地下空間いっぱいに広がる巨体。九本の尾の一本一本が、大蛇のようにうねっている。
ただ存在するだけで、空気が震えていた。
「封印が……破られた……」
いや──完全に破られたのではない。
封印は辛うじて玉藻さまの力の大部分を抑え込んでいる。今出ているのは、全体の三割程度。
だが、三割でも国を揺るがすには十分すぎる力だ。
『グルルル……』
玉藻さまの金色の瞳は、理性の光を失いかけていた。
三百年の封印で溜まった怒りと苦しみと孤独が、本能と混ざり合って暴走している。
「玉藻さま!」
叫んだ。
全霊を込めて。
「私の声が聞こえますか!? 紬です! 毎朝、封印の前で挨拶していた──あなたの退屈しのぎ相手ですよ!」
玉藻さまの耳がぴくりと動いた。
『……ツム……ギ……?』
一瞬だけ、金色の瞳に理性の光が戻った。
──だが、すぐにまた濁る。
『ダメ、だ……小娘……逃げろ……わしは……もう……』
「逃げません!」
私は立ち上がった。
封印管理係の地味な着物のまま、大妖の前に。
地下空間の入り口で、足音が聞こえた。
カガリが団員を率いて駆けつけてきたのだ。
「な……」
カガリが絶句した。
九尾の大妖狐が、目の前にいる。
「全員退避!」
カガリが叫ぶ。
団員たちが恐慌に陥る。当然だ。三百年前に国を滅ぼしかけた災厄が、目の前にいるのだから。
「カガリ副団長!」
私は叫んだ。
「手を出さないで! 攻撃すれば封印が完全に壊れます!」
「しかし──!」
「お願いします! 私に任せてください!」
カガリが歯を食いしばった。
理解と矜持の間で葛藤している。
「……全員、手を出すな。ツムギに任せる」
その判断が、カガリの精一杯の信頼だった。
私は玉藻さまの前に歩み出た。
九本の尾が威嚇するように蠢く。一本に触れただけで、人間の体など粉々になる。
「玉藻さま」
静かに、穏やかに、語りかけた。
「毎朝おはようございますって言うと、『小娘、今日も来たか』って返してくれましたよね」
尾の動きが、わずかに緩んだ。
「減らず口だって言いながら、いつも私の体調を気にしてくれましたよね」
金色の瞳が、揺れた。
「三百年も封印の中で──ずっと寂しかったでしょう。でもあなたは、私に優しくしてくれた」
一歩、近づいた。
「あなたは災厄なんかじゃない。私の──大切な人です」
玉藻さまの目から、一筋の涙が落ちた。




