星々のステージと、影武者ヒロイン
「開演まであと三十分しかないんだぞ! なんとかしろ!」
大型ライブハウスの裏通路。スタッフたちの怒号と足音が、せわしなく交差していた。
「無茶言わないでください! あかりは過呼吸を起こしてるんです。今はとてもステージになんて……」
マネージャーが頭を抱える横をすり抜け、俺と高坂は一番奥の楽屋へと足を踏み入れた。
室内のソファで、毛布にくるまりガタガタと震えている小柄な少女。
人気急上昇中のアイドルグループ『ステラドル』の絶対的センター、星野あかり、十九歳。
それが今回の依頼人だった。
「ひどい状態だな」
高坂が冷静に呟く。
今日がグループ初の単独大型ライブ。しかし、チケット即完売という異常な熱気と「絶対に失敗できない」という重圧が、彼女の精神を限界まで追い詰めてしまったらしい。
「星野さん」
俺が声をかけると、彼女は青ざめた顔を上げた。
「……誰……?」
「代行屋だ。君を助けに来た」
俺は彼女の目の前にしゃがみ込んだ。
過呼吸の震えは、以前会った美優のトラウマに似ている。だが、今回はタイムリミットが迫っていた。
「出ないなら、中止にするしかない。代わりはいないんだろ?」
「だ、め……っ!」
あかりは自分の胸を強く掴み、必死に首を振った。
「私が……私が出なきゃ……みんな、この日のために……っ」
センターという十字架。
逃げ出したいほどの恐怖と、ファンを裏切りたくないという責任感が、彼女の心を引き裂いている。
「怖いなら休めばいい。誰も責めない」
俺がわざと突き放すように言うと、彼女の瞳から大粒の涙が溢れた。
『助けて……っ! 怖い、でも……私を待ってるみんなのところへ……ステージへ行かせて……!』
悲痛なまでの、心の叫び。
(……代行してやるよ。お前の、その重圧ごと)
――世界が歪む。
全身を締め付けるような、フリルのついた重い衣装。
顔には厚いメイク。そして、心臓が破裂しそうなほどのバクバクとした動悸。
視界が切り替わり、俺はソファから勢いよく立ち上がった。
「あ、あかり……?」
「……大丈夫です。行きます」
透き通るような、でも確かな芯のある声。
心配するマネージャーを制し、俺は楽屋を飛び出した。
ステージ裏に待機していたメンバーたちが、俺の姿を見て息を呑む。
さっきまで泣き崩れていた彼女が、別人のようなオーラをまとって現れたからだ。
「本番、五秒前! ……スリー、ツー、ワン、ゴー!」
SE(効果音)が鳴り響く。
俺はステージへと駆け出した。
網膜を焼くような強烈なスポットライト。
視界を埋め尽くす、何千ものサイリウムの光。そして、鼓膜を揺らすような地鳴りの歓声。
(これが……アイドルの立つ舞台か)
曲が始まる。
ダンスの振り付けや歌詞は、彼女の身体の記憶から直接流れ込んでくる。
だが、それだけじゃない。俺は『役者』だ。
(アイドルも一つの『役』だ。なら、完璧なセンターを演じ切ってやる)
俺はあかりの身体を通し、全身全霊で「観客を魅了するヒロイン」を体現した。
指先の角度、視線の配り方、ふとした瞬間の笑顔。
恐怖で強張っていたはずの彼女のパフォーマンスは、まるでステージの女神が憑依したかのように研ぎ澄まされていく。
「今日のあかりちゃん、すげえ……!」
「なんか、オーラやばくないか!?」
客席の熱狂が、うねりとなってステージに押し寄せてくる。
隣で踊るメンバーたちも、俺の放つ熱量に引っ張られるように最高の笑顔を弾けさせていた。
三曲の激しいメドレーが終わり、MCの暗転のタイミング。
俺はステージの袖へと下がり――そこで、意識を切り離した。
「……っはあ、はあ!」
自分の身体に戻った瞬間、滝のような汗と疲労が俺を襲う。
そしてステージ袖では、憑依の解けたあかりが、自分の両手を見つめて呆然としていた。
「どうだ、自分の足で立てるか?」
俺が壁に寄りかかりながら声をかけると、あかりは顔を上げた。
「……歓声が、聞こえました」
彼女の瞳から、さっきまでの怯えは消えていた。
代わりに宿っていたのは、ステージの熱を知ってしまった表現者としての、強い光。
「私……やっぱり、ステージが大好きです。ここからは、私の足で立ちます」
「……行ってこい、センター」
俺の言葉に、彼女は眩しい笑顔で力強く頷き、再び光の中へと飛び出していった。
割れんばかりの歓声が、彼女を迎え入れる。
もう、俺の助けは必要ない。
帰り道。
夜風が、火照った身体を冷ましていく。
「アイドルにもなれるとはな。お前の役者魂も捨てたもんじゃない」
「……疲れたよ。でも」
高坂の軽口に答えながら、俺は自分の手を握った。
何千人もの熱狂を真正面から受け止める、あの圧倒的な高揚感。
あんな景色を知ってしまったら、もう後戻りなんてできない。
その夜。
アパートの薄暗い部屋で、俺はベッドの下から一冊のノートを引きずり出した。
擦り切れた『演技ノート』。
「……まだ、捨ててなかったのかよ」
自嘲気味に呟きながら、ページをめくる。
そこには、下手くそな字で『いつか絶対、主演になる』と書かれていた。
他人の人生を演じるたび、止まっていた俺自身の人生の歯車も、少しずつ回り始めている気がする。
ピコン。
スマホが鳴った。高坂からだ。
『次の依頼』
添付されていたのは、俺と同じくらいの年齢の、少し影のある青年の写真。
そして短いメッセージ。
『俺の代わりに、父親に会ってほしい』
「身代わり……か」
俺はスマホを握りしめ、静かに息を吐いた。
「俺は今日も、誰かを演じる」




