平成の怪物と、泥だらけのストライク
「明日の試合で引退する男を助けてほしい」
高坂から送られてきた画面には、一人の男の写真が添付されていた。
神崎蓮司。三十八歳。
かつては「平成の怪物」と呼ばれ球界を席巻した大投手だ。だが、度重なるケガと加齢による不振で二軍生活が続き、明日、ついに引退試合を迎えるという。
「……伝説の投手だぞ。俺なんかにどう助けろってんだ?」
「本人の切実な願いを叶える。それだけだ」
事務所のソファで脚を組む高坂は、他人事のように鼻で笑った。
「最後の試合で『勝ち投手』にしてやればいいのか?」
「それは本人に直接聞け。現場の手配は済んでる」
相変わらず強引な相棒に溜め息をつき、俺はナイター練習が終わった直後の球場裏へと向かった。
暗がりの中でたたずんでいた神崎さんは、エキストラ衣装の俺を見ると、フッと口元を緩めた。
「君が例の『代行屋』か」
「……話が早くて助かります。神崎さん、あなたが望んでいることは何ですか?」
俺の直球の問いに、彼はしばらく沈黙した後、グローブを固く握りしめた。
「……最後に、もう一度だけ。全盛期の球を投げたい」
翌日。満員の観客で熱気立つ引退試合。
九回表、二死満塁の絶体絶命の場面で、神崎さんの名前がコールされた。
割れんばかりの歓声の中、マウンドに立つ神崎さんの横顔を、俺はベンチ裏から見つめる。
(……身体が限界を超えている)
投球練習のひと球で分かった。肩は悲鳴を上げ、肘の靭帯は擦り切れかけている。かつて一秒間に何度もキレを生んだ腕は、もう昔のようには振れない。
『助けて……! 頼む……俺に、最後の一球を……!』
マウンドの神崎さんから、切迫した叫びが脳内に直接流れ込んでくる。
(……代行してやるよ。あんたのラストマウンド)
——世界が歪み、視界が一変する。
スタジアムを包む万雷の歓声。強烈なカクテル光線の熱。超満員の視線。
全身を駆け巡る激痛と倦怠感とともに、俺(神崎)はマウンドの中心に立っていた。
まただ。これが……「主役の景色」。
だが、今回はいつもと違っていた。
身体の奥底から、神崎さんの三十八年分の記憶と感情が波のように溢れ出してきたのだ。
初めて父親とキャッチボールをした日の革の匂い。
プロ指名を受けた日の胸の高鳴り。
歓喜の胴上げ。そして……人知れず膝を抱えた幾度もの敗北と絶望。
相手打者が打席に入った。
一球目。アウトローへの直球、ストライク。
二球目。渾身のエースボール、ファール。
三球目。肩に激痛が走り、汗が目に入る。
そして、カウント、ツーボール・ツーストライク。
あと一球。神崎蓮司としての、人生最後の一球。
俺がボールの縫い目に指をかけると、神崎さんの意識が静かに語りかけてきた。
(……ありがとう。もう、十分だ)
(え……?)
俺は一瞬、息を飲んだ。
神崎さんが本当に望んでいたのは、相手をひねり潰す「勝利」でも、かつての「豪速球」でもなかった。
怪我とプレッシャーに潰され、いつの間にかすり減ってしまった「野球が大好きだった頃の自分」に、最後にもう一度だけ出会うことだったのだ。
俺は深く踏み込み、右腕を振り抜いた。
150キロを超える剛速球ではない。かつての切れ味もない。
だが、神崎蓮司という一人の男が、その泥臭い人生のすべてを乗せて投じた、完璧なラストボール。
バットが空を切った。
「スリーストライク、アウト! 試合終了!」
地鳴りのような歓声が球場を揺らした。
憑依が解け、ベンチ裏で壁に背中を預けていると、汗を拭った神崎さんが歩いてきた。
「ありがとうございました。……勝てましたね」
俺が声をかけると、彼は子供のように無邪気な笑顔を見せた。
「違うよ。俺は今日、勝ち負けを超えた場所に行けたんだ。……もう一度、野球が好きだった少年になれた」
夕闇の空を見上げる神崎さんの背中は、元・名投手ではなく、純粋な一人の「野球少年」そのものだった。
帰り道。車を運転する高坂がミラー越しに聞いてきた。
「どうだった、元・怪物のラストダンスは?」
「……不思議な感覚だったよ。主役っていうのは、勝った奴のことだけじゃないのかもしれない」
「ほう?」
「その人が、一番自分らしく輝けた瞬間。その一瞬こそが、人生の『主役』なんだと思う」
アパートに戻り、スマホを開く。画面には、またしてもオーディションの不合格通知。
以前なら胃が痛むような挫折感に苛まれていたはずだ。
だが、今の俺は違った。
(いつか……俺自身の人生でも、本当の主役になってやる)
静かな誓いを胸に台本を閉じたその時、スマホが短く震えた。高坂からのメッセージだ。
『次の依頼。もう一度ステージに立ちたいという女性だ』
添えられた写真には、舞台衣装を着た若い女性の姿。
俺は画面を強く握り締め、夜の街を見つめた。
「俺は今日も——誰かの人生を演じ切る」




