トラウマの鍵盤と、十万円の代行費
「娘を助けてください」
黒い封筒から取り出した用紙には、その一言と住所、名前、年齢しか書かれていなかった。
「……これ、本当に仕事か?」
「何がだ?」
「あまりに抽象的すぎる。どんなトラブルかも書いてない」
事務所のソファで缶コーヒーを煽る高坂に問いかけると、奴はニヤリと不敵に笑った。
「昨日まで『人助けに金は取らない』なんて綺麗事を抜かしていた奴が、随分プロっぽい顔をするようになったじゃねえか」
痛いところを突かれ、俺は黙り込む。
「……報酬は?」
「成功報酬で十万。クライアントは母親だ」
「十万……」
俺は息を呑んだ。エキストラのバイト数回分、今の俺にとっては大金だ。
「高いと思うか?」
「ああ。こんな駆け出しの俺に、本当にそれだけの価値を提供できるのか……」
「くだらん不安を抱いてる暇があったら、現場で確かめてこい」
高坂に背中を押され、俺は依頼書の住所へ向かった。
郊外の閑静な住宅街。
出迎えてくれた四十代の女性――母親の顔は、疲弊と不安でやつれ切っていた。
「本当に……よろしくお願いいたします。娘の美優を……美優を助けてください」
何度も頭を下げる母親に案内され、二階の部屋へ向かう。
リビングの写真立てには、コンクールで賞状を抱えて眩しく笑う制服姿の少女が写っていた。
だが、部屋のドアを開けた先にいた少女――美優は、ベッドの上で膝を抱え、冷ややかな瞳で窓の外を見つめていた。
「美優、この方が……」
母親が声をかけた瞬間、美優は鋭い視線で俺を射抜いた。
「帰ってください。私、誰にも助けてもらう気なんてありませんから」
拒絶の言葉。
その瞬間、俺の胸には何の反応も起きなかった。能力は発動しない。
(……当然だ)
この能力は「助けてほしい」という本人の魂の切望と、「助けたい」という俺の強い共鳴が揃って初めて発動する。自ら心を閉ざしている人間には、俺の力は何の価値もなさない。
不発のまま家を後にした帰り道、高坂に電話で報告した。
『依頼本人が拒絶してたら、どうにもならねえな。諦めるか?』
「……分かってる」
本人が望まない救済など、ただのエゴだ。
だが――あの部屋に漂っていた刺さるような孤独と冷気が、頭から離れなかった。
翌日。俺は再び美優の部屋の前に立っていた。
「……また来たんですか。無駄だって言ったでしょ」
呆れ果てる美優に、俺は苦笑いを浮かべてパイプ椅子を引き寄せた。
「無駄かもしれない。でも、俺……売れない役者なんだよ」
「……は? 役者?」
「そう。セリフもないエキストラばかりで、世間からは『背景』扱いされてる落ちこぼれだ」
不意に口をついて出た自虐に、美優が「ふっ」と小さく鼻を鳴らした。頑なだった表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「変な人。……売れてないのに、なんで続けてるの?」
「芝居が好きだからな。……君が、ピアノを好きなのと同じだ」
美優の肩が跳ねた。
部屋の隅に置かれた、埃をかぶりかけたアップライトピアノ。
静まり返った部屋で、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。
才能を期待され、挑んだ大きなコンクール。ステージのプレッシャーに押し潰され、大勢の観客の前で手が激しく震えて音が止まったこと。スポットライトの熱が、まるで自分を焼き殺す炎のように思えたこと。
「もう無理なんです。鍵盤を見るだけで、あの時の恐怖で息ができなくなる……恐ろしいんです」
言葉の終わり。
彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた瞬間、俺の脳内に直接届いた。
『助けて……私、もう一度だけ……ピアノが弾きたい……!』
(……代行してやるよ。お前のトラウマごと)
——世界がぐにゃりと歪む。
視線が低くなり、繊細で小さな指が目に入る。強い恐怖で心臓が早鐘のように鳴り響く。
美優の身体に入った俺は、ピアノの前に座っていた。
鍵盤に手を乗せると、指先がガタガタと震える。彼女がトラウマとして抱え込んできた膨大な「恐怖」が脳を侵食してくる。
だが、完璧に演じきった先日の桐谷美咲の一件を思い出す。
(大丈夫だ……俺がついてる)
俺は深く息を吸い、鍵盤を力強く叩いた。
完璧な演奏ではない。途中で指がもつれ、間違えた音も鳴った。
だが、恐怖から逃げずに、魂を込めて音を紡ぎ出す。
部屋の中に、不器用だが力強いピアノの音色が響き渡る。
最後の和音を鳴らし終えた時、背後で母親が押し殺した泣き声を上げていた。
「……美優……っ」
俺はそっと意識を引き抜き、自分の身体へと戻った。
ベッドの上で自分の手を見つめていた美優は、ボロボロと涙を溢れさせながら、柔らかく笑った。
「怖かったです……すごく、手が震えて……。でも」
彼女は涙を拭い、まっすぐに俺を見た。
「もう一度だけ……やり直したいって、思えました」
数日後。高坂の事務所。
「ほら、報酬の十万だ」
机の上に置かれた封筒を、俺はしばらく見つめていた。
「……本当に、もらっていいのか?」
「お前は自分の時間と、積んできた役者としての経験と、覚悟を差し出したんだ。その対価だ。胸を張って受け取れ」
俺は静かに封筒を掴み、ポケットに収めた。
誰かの人生を肩代わりし、正当な対価を得る。それが『憑依代行屋』としての俺の生き方だ。
アパートに戻り、机の上に報酬の封筒を置く。
その横には、今日届いたオーディションの落選通知。
いつもなら落胆するはずの紙切れを見つめても、不思議と心は折れなかった。
自分はただの背景かもしれない。だが今日、俺は確かに一人の少女の止まっていた人生を動かしたのだ。
ピコン、とスマホが鳴る。高坂からのメッセージだ。
『次の依頼だ。明日の試合で引退する、元・天才プロ野球選手』
添付された写真には、ピッチャーボックスで孤独に立つ男の姿。
俺はスマホを握り締め、静かに呟いた。
「俺は今日も……誰かの人生を演じ切る」
そして——次の『ステージ』へと踏み出した。




