↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
2/64

トラウマの鍵盤と、十万円の代行費

「娘を助けてください」

黒い封筒から取り出した用紙には、その一言と住所、名前、年齢しか書かれていなかった。

「……これ、本当に仕事か?」

「何がだ?」

「あまりに抽象的すぎる。どんなトラブルかも書いてない」

事務所のソファで缶コーヒーを煽る高坂に問いかけると、奴はニヤリと不敵に笑った。

「昨日まで『人助けに金は取らない』なんて綺麗事を抜かしていた奴が、随分プロっぽい顔をするようになったじゃねえか」

痛いところを突かれ、俺は黙り込む。

「……報酬は?」

「成功報酬で十万。クライアントは母親だ」

「十万……」

俺は息を呑んだ。エキストラのバイト数回分、今の俺にとっては大金だ。

「高いと思うか?」

「ああ。こんな駆け出しの俺に、本当にそれだけの価値を提供できるのか……」

「くだらん不安を抱いてる暇があったら、現場で確かめてこい」

高坂に背中を押され、俺は依頼書の住所へ向かった。

郊外の閑静な住宅街。

出迎えてくれた四十代の女性――母親の顔は、疲弊と不安でやつれ切っていた。

「本当に……よろしくお願いいたします。娘の美優を……美優を助けてください」

何度も頭を下げる母親に案内され、二階の部屋へ向かう。

リビングの写真立てには、コンクールで賞状を抱えて眩しく笑う制服姿の少女が写っていた。

だが、部屋のドアを開けた先にいた少女――美優は、ベッドの上で膝を抱え、冷ややかな瞳で窓の外を見つめていた。

「美優、この方が……」

母親が声をかけた瞬間、美優は鋭い視線で俺を射抜いた。

「帰ってください。私、誰にも助けてもらう気なんてありませんから」

拒絶の言葉。

その瞬間、俺の胸には何の反応も起きなかった。能力は発動しない。

(……当然だ)

この能力は「助けてほしい」という本人の魂の切望と、「助けたい」という俺の強い共鳴が揃って初めて発動する。自ら心を閉ざしている人間には、俺の力は何の価値もなさない。

不発のまま家を後にした帰り道、高坂に電話で報告した。

『依頼本人が拒絶してたら、どうにもならねえな。諦めるか?』

「……分かってる」

本人が望まない救済など、ただのエゴだ。

だが――あの部屋に漂っていた刺さるような孤独と冷気が、頭から離れなかった。

翌日。俺は再び美優の部屋の前に立っていた。

「……また来たんですか。無駄だって言ったでしょ」

呆れ果てる美優に、俺は苦笑いを浮かべてパイプ椅子を引き寄せた。

「無駄かもしれない。でも、俺……売れない役者なんだよ」

「……は? 役者?」

「そう。セリフもないエキストラばかりで、世間からは『背景』扱いされてる落ちこぼれだ」

不意に口をついて出た自虐に、美優が「ふっ」と小さく鼻を鳴らした。頑なだった表情が、ほんの少しだけ柔らかくなる。

「変な人。……売れてないのに、なんで続けてるの?」

「芝居が好きだからな。……君が、ピアノを好きなのと同じだ」

美優の肩が跳ねた。

部屋の隅に置かれた、埃をかぶりかけたアップライトピアノ。

静まり返った部屋で、彼女はぽつりぽつりと語り始めた。

才能を期待され、挑んだ大きなコンクール。ステージのプレッシャーに押し潰され、大勢の観客の前で手が激しく震えて音が止まったこと。スポットライトの熱が、まるで自分を焼き殺す炎のように思えたこと。

「もう無理なんです。鍵盤を見るだけで、あの時の恐怖で息ができなくなる……恐ろしいんです」

言葉の終わり。

彼女の瞳から一筋の涙が零れ落ちた瞬間、俺の脳内に直接届いた。

『助けて……私、もう一度だけ……ピアノが弾きたい……!』

(……代行してやるよ。お前のトラウマごと)

——世界がぐにゃりと歪む。

視線が低くなり、繊細で小さな指が目に入る。強い恐怖で心臓が早鐘のように鳴り響く。

美優の身体に入った俺は、ピアノの前に座っていた。

鍵盤に手を乗せると、指先がガタガタと震える。彼女がトラウマとして抱え込んできた膨大な「恐怖」が脳を侵食してくる。

だが、完璧に演じきった先日の桐谷美咲の一件を思い出す。

(大丈夫だ……俺がついてる)

俺は深く息を吸い、鍵盤を力強く叩いた。

完璧な演奏ではない。途中で指がもつれ、間違えた音も鳴った。

だが、恐怖から逃げずに、魂を込めて音を紡ぎ出す。

部屋の中に、不器用だが力強いピアノの音色が響き渡る。

最後の和音を鳴らし終えた時、背後で母親が押し殺した泣き声を上げていた。

「……美優……っ」

俺はそっと意識を引き抜き、自分の身体へと戻った。

ベッドの上で自分の手を見つめていた美優は、ボロボロと涙を溢れさせながら、柔らかく笑った。

「怖かったです……すごく、手が震えて……。でも」

彼女は涙を拭い、まっすぐに俺を見た。

「もう一度だけ……やり直したいって、思えました」

数日後。高坂の事務所。

「ほら、報酬の十万だ」

机の上に置かれた封筒を、俺はしばらく見つめていた。

「……本当に、もらっていいのか?」

「お前は自分の時間と、積んできた役者としての経験と、覚悟を差し出したんだ。その対価だ。胸を張って受け取れ」

俺は静かに封筒を掴み、ポケットに収めた。

誰かの人生を肩代わりし、正当な対価を得る。それが『憑依代行屋』としての俺の生き方だ。

アパートに戻り、机の上に報酬の封筒を置く。

その横には、今日届いたオーディションの落選通知。

いつもなら落胆するはずの紙切れを見つめても、不思議と心は折れなかった。

自分はただの背景かもしれない。だが今日、俺は確かに一人の少女の止まっていた人生を動かしたのだ。

ピコン、とスマホが鳴る。高坂からのメッセージだ。

『次の依頼だ。明日の試合で引退する、元・天才プロ野球選手』

添付された写真には、ピッチャーボックスで孤独に立つ男の姿。

俺はスマホを握り締め、静かに呟いた。

「俺は今日も……誰かの人生を演じ切る」

そして——次の『ステージ』へと踏み出した。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。