母の代わり
「逃げて。」
母の声。
その一言で。
俺の足は動かなかった。
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「母さん……。」
目の前の女性。
顔も。
声も。
全部、母さんだった。
記憶なんてないはずなのに。
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でも。
違う。
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春人が言った。
「彼女は君の母親の記憶を持っている。」
「正確には。」
「母親の人格を再現した存在だ。」
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「再現……?」
俺は呟く。
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春人は穏やかに笑う。
「人は記憶でできている。」
「なら。」
「記憶を完全に再現すれば。」
「その人は帰ってくる。」
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俺は母を見る。
彼女は悲しそうな顔をしていた。
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「翔。」
「ごめんね。」
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その言葉。
胸が締め付けられる。
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「ずっと。」
「あなたを見ていたかった。」
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涙が落ちる。
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もし。
本当に母さんなら。
ずっと聞きたかった。
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「俺を。」
「置いていったこと。」
「後悔してる?」
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女性は答えなかった。
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少しだけ間を置いて。
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「してないよ。」
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俺は息を止める。
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「え?」
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「後悔してない。」
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女性は微笑む。
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「だって。」
「あなたが生きているから。」
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その瞬間。
胸の奥が痛んだ。
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本物だと思った。
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でも。
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同時に。
何かが違う。
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能力が反応している。
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憑依できる。
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条件は揃っている。
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彼女は助けを求めている。
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そして。
俺も助けたいと思っている。
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でも。
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手が伸びない。
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「……できない。」
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高坂が見る。
「翔?」
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「この人に。」
「憑依できない。」
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春人が笑う。
「当然だ。」
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「彼女には。」
「本人が存在しない。」
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その言葉が。
胸に刺さった。
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突然。
母の身体が苦しみ始める。
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「う……。」
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頭を抱える。
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「翔……。」
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「怖い。」
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その瞬間。
能力が発動した。
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俺は。
彼女の中へ入る。
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そこにあったのは。
真っ白な世界。
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記憶だけが並んでいる。
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父。
母。
幼い俺。
詩織。
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でも。
どこにも。
「今」の母はいない。
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「あなたは誰なんですか。」
俺は問いかける。
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返事はない。
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しばらくして。
小さな声。
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「……分からない。」
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振り返る。
そこにいたのは。
母の姿をした女性。
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「私は。」
「母さんなの?」
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俺は答えられない。
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彼女は泣いていた。
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「私は。」
「あなたを愛していいの?」
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その言葉。
俺には分かった。
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この人も。
苦しんでいる。
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作られた存在。
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でも。
感じる心はある。
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「あなたは。」
俺は言う。
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「あなたです。」
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女性が顔を上げる。
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「母さんの代わりじゃない。」
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「誰かのコピーでもない。」
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「あなたが。」
「あなたとして生きるなら。」
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「それは本物だと思います。」
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その瞬間。
世界が揺れる。
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母の記憶が流れ込む。
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最後の日。
父と母。
赤ん坊の俺。
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母が父に言う。
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『翔には。』
『普通に笑って生きてほしい。』
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『能力なんてなくても。』
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『誰かを助けられる子だから。』
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俺は泣いた。
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母は。
最後まで。
俺を信じていた。
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現実。
俺は目を開ける。
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女性は静かに立っていた。
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「翔。」
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「ありがとう。」
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俺は首を振る。
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「俺の方こそ。」
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その時。
春人が現れる。
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「理解できない。」
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「なぜだ。」
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「君は母親を望んでいたはずだ。」
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「なぜ。」
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「偽物を拒絶できる。」
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俺は春人を見る。
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「偽物だからじゃない。」
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「この人は。」
「もう。」
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「誰かの代わりじゃないからだ。」
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春人の表情が険しくなる。
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「……やはり。」
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「君は。」
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「私と違う答えを出すのか。」
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その瞬間。
女性が苦しみ始める。
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身体から黒い影のようなものが溢れる。
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神崎の研究記録。
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憑依能力。
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人格再構築。
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その副作用。
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春人は呟く。
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「失敗作か。」
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俺は睨む。
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「違う。」
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「この人は。」
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「失敗なんかじゃない。」
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女性は俺を見る。
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「翔。」
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「お願い。」
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「私を。」
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「終わらせて。」
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俺は凍りついた。
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