黄泉谷
「本当に行くのか。」
高坂がハンドルを握りながら聞いた。
「ああ。」
助手席の俺は、父の写真を見つめた。
後部座席では黒瀬が腕を組み、窓の外を眺めている。
「……嫌な予感しかしない。」
珍しく黒瀬が弱音を吐いた。
---
三人を乗せた車は、街を離れ、山道へ入る。
ナビは途中で画面が真っ黒になった。
「電波がない。」
高坂がスマホを確認する。
「圏外か。」
黒瀬は首を横に振った。
「違う。」
「この辺りは昔から、機械がよく壊れる。」
---
やがて、古びた石碑が見えてきた。
そこには風化しかけた文字。
**『黄泉谷村』**
俺は車を降りる。
空気が違う。
静かすぎる。
風の音だけが耳に残る。
---
村へ足を踏み入れると、不思議な光景が広がっていた。
古い木造家屋。
小さな川。
畑で野菜を育てる老人。
子どもたちが笑いながら走り回っている。
「……普通の村?」
高坂が拍子抜けしたように呟く。
写世の拠点のような緊張感はない。
どこにでもある、のどかな集落だった。
---
「あんたたち、旅の人かい?」
後ろから声がした。
振り返ると、小柄な老婆が立っていた。
優しい笑顔。
「はい。」
俺が頭を下げる。
「名前は。」
「黄泉代翔です。」
その瞬間だった。
老婆の表情が固まる。
「……黄泉代?」
小さく、その名を繰り返した。
---
「やっぱり。」
老婆は目を細める。
「あの子の息子か。」
「あの子……?」
「お父さんだよ。」
---
胸が高鳴る。
「父を知っているんですか?」
老婆は静かに頷いた。
「もちろん。」
「この村の子だったからね。」
---
俺たちは老婆の家へ案内された。
囲炉裏の火が揺れる。
壁には古い写真が何枚も飾られていた。
その中に、一枚だけ。
俺は目を奪われた。
若い父。
母。
そして幼い俺。
……だけではない。
幼い頃の父の写真。
その隣には、見知らぬ少年が写っていた。
---
「この人は?」
俺が尋ねる。
老婆は少し黙ってから答えた。
「春人。」
「お父さんの親友だよ。」
---
黒瀬の顔色が変わる。
「春人……?」
その名前を知っているようだった。
---
老婆は続ける。
「二人はいつも一緒だった。」
「兄弟みたいに仲が良くてね。」
「でも。」
火を見つめながら言葉を続ける。
「ある日、春人が村を出た。」
「それっきり帰ってこなかった。」
---
その言葉に、黒瀬が立ち上がる。
「翔。」
「外へ出ろ。」
「え?」
「今すぐ。」
---
家を出た瞬間。
黒瀬は写真を握りしめた。
「春人……。」
震える声だった。
「写世の創設者だ。」
---
「……え?」
高坂も言葉を失う。
---
「写世を作った男の本名は。」
「春人。」
「俺は顔を知らなかった。」
「だが。」
「年齢も時期も一致する。」
---
俺は写真を見つめる。
父と肩を組み、笑っている少年。
まさか。
この人が。
写世を作ることになるなんて。
---
その夜。
老婆の家に泊めてもらうことになった。
眠れず、縁側へ出る。
月が山を照らしていた。
ふと。
誰かの気配を感じる。
---
境内の方。
古い神社の前に、一人の少女が立っていた。
白いワンピース。
長い黒髪。
十歳くらいだろうか。
---
目が合う。
少女は何も言わず、静かに笑った。
そして。
神社の奥へ歩いていく。
---
「待って!」
俺は追いかけた。
しかし。
鳥居をくぐった瞬間。
少女の姿は消えていた。
---
代わりに、石段の上に一冊の古い日記が落ちていた。
表紙には、かすれた文字。
**『春人の日記』**
---
そのとき。
背後から声がした。
「それを読むな。」
振り返る。
そこに立っていたのは、昼間の老婆だった。
しかし、その表情は昼とはまるで違う。
厳しく、どこか怯えている。
---
「その日記を開けば。」
老婆は震える声で言う。
「この村は、もう後戻りできなくなる。」
---
俺は日記を見つめた。
父の親友。
写世の創設者。
彼は一体、何を見たのか。




