第九話 蕨宿(2)二人の忍び旅
厠から戻ってきた竹千代の姿を見て、ハチは吹き出しそうになった。
さっきまでの「世間知らずな若君」の面影はどこへやら。裾に黒い縁取りのついた野袴を穿き、背割り羽織に手甲、脚絆まで完璧に装備している。腰には二振りの刀がしっくりと馴染み、どこからどう見ても手慣れた武士の旅装だった。わずかに漂う、新品の藍の匂いが妙に生々しい。
「……竹千代? おまえ、その格好どうしたんだよ」
「厠の裏にな、親切な旅人が忘れ物をしていってな。余の体格にあまりに誂え向きだったので、拝借仕った」
「んなわけあるか! どこの世界に刀まで含めた旅装一式を忘れていく旅人がいるんだよ!」
ハチの至極真っ当なツッコミを、竹千代は涼しい顔で受け流す。実際には、厠の裏で待機していた正勝から「若君、いい加減にしてください」と泣き言を言われながら受け取ったものだが、それを明かす気は毛頭ない。
竹千代は仕上げとばかりに、深編笠を深く被ってみせた。
「どうだ、似合うか?」
「似合う似合わないの前に、怪しすぎるだろ。なんで顔を隠すんだよ」
「次の浦和宿は幕府の直轄領でな。鷹狩で馴染みの宿があるのだ。余の顔を知る鷹匠や手代に見つかっては、この『お忍び』が台無しだろう?」
竹千代が笠の隙間から悪戯っぽくささやくと、ハチは「なるほどね」と渋々納得した。確かに、今の自分たちには「目立たないこと」が何よりの護身になる。
「ほら、座って食べな。精をつけないと、また足を引きずることになるぞ」
「おお、これが宇治丸か!」
ハチが被せておいた木蓋を取ると、閉じ込められていた甘辛い湯気がふわりと立ち上り、竹千代の顔を包んだ。
「これはまた、城ではお目にかかれない泥臭くて美味そうなものを……!」
竹千代は目を輝かせ、豪快に頬張る。
「美味い! 苦味と甘味がちょうどいい塩梅で、力強い滋味がある。これぞ旅の醍醐味だな!」
無邪気に喜ぶ姿を見ていると、ハチは毒気を抜かれてしまう。この男は、血生臭い剣技を見せたかと思えば、こうして子供のように笑う。その落差に、ハチの心は知らず知らずのうちにかき乱されていた。
食後、竹千代は懐から二通の通行手形を取り出し、卓の上に置いた。使い込まれた木札が、コンと軽い音を立てる。
「ハチ、余はこれより旗本・徳山竹千代と名乗ることにした」
「安直だな。徳川の『川』を『山』に変えただけかよ」
「そして、そなたは余の竹馬の友で、浪人の美作八郎だ」
ハチの指先が、ぴくりと震えた。
美作は、関ヶ原以前の祖父の旧領の一部。八郎は、祖父がかつて呼ばれていた幼名だ。
(……こいつ、どこまで気づいてやがる)
ハチは動揺を悟られぬよう、慌てて湯呑みを口に運んだ。
竹千代は探るようにハチの瞳を覗き込んだが、それ以上踏み込むことはせず、ただ穏やかな笑みを浮かべている。
「二人で信濃へ善光寺参りに行くという設定だ。これなら怪しまれないだろう?」
「……まあ、悪くないかもな」
正体を察しつつも、決定的な言葉は口にしない。この奇妙で心地よい「道連れ」の時間を、壊したくないという思いは共通していた。
「ところで竹千代、気づいてるか?」
ハチが声を潜めると、竹千代は笠の奥で鋭く目を光らせた。
「ああ。江戸を出た時からずっとだ」
背後にまとわりつく、複数の視線。
一つは正勝だろうが、それとは別に、不穏な殺気が混じっている。
「さっきの野盗の仲間かな?」
「あるいは、鰻の匂いにつられて大ネズミが寄ってきたか。案ずるな、ハチ。余がそばにいる」
*
その夜、薄暗い宿で雑魚寝しながら、二人は肌寒い夜気を突き抜けてくる互いの気配を感じていた。
ハチは、竹千代が見せたいくつかの不可解な言動から、将軍家のお家騒動が背景にあるのかもしれないと思い至った。大ネズミこと竹千代の護衛がついてきているなら、むしろ安心だ。だが、もし刺客に命を狙われているのだとしたら……。ハチは隣で無防備に眠る竹千代の寝顔を薄闇の中で見つめ、小さく溜息をついた。
「あいつ、強いけどどこか抜けてるからな。私が守ってやらないと」
一方の竹千代も、ハチが抱える「秘密」について考えていた。素性は大体わかったが、目的地と旅の理由はまだ判然としない。野盗の類いならまだいい。もし、ハチの祖父が暗躍する幕府転覆計画だとしたら……。竹千代もまた、眠っていても警戒心を緩めないハチの、ピリピリと張り詰めた気配を察していた。
「敵の狙いがハチ自身、あるいはハチの持つ『何か』であるならば、余が盾になるのが一番安全で確実だ」
*
翌朝、宿場を発つ際、竹千代は一本の杖を差し出した。
「ハチ、これをそなたに」
「いらないよ、こんな年寄りくさいもの」
「ただの杖ではない。仕込み杖だ。そなたは小柄ゆえ、間合いを補う武器が必要だろうと思ってな」
ハチが受け取ると、掌に吸い付くような滑らかな木肌の奥に、ずっしりとした芯の重みを感じた。杖に見せかけた突針だ。
武家の子弟なら、幼少期に刀だけでなく槍や薙刀の心得を叩き込まれている。竹千代は、ハチの体格と能力を見抜いた上で、一番扱いやすい武器を用意してくれていた。
「竹千代……、ありがたく使わせてもらうよ」
ハチは素直に受け取ると、手に馴染ませるように杖を何度も握りしめた。
竹千代は、自分を「人さらい」ではなく「相棒」として見ている。そのことがたまらなく嬉しく、どこか甘酸っぱくもある。
「それでは行こうか。ああ、もし疲れて歩けなくなったら、余が背負ってやろう。いつでも遠慮なく頼ってくれてよいぞ」
「絶対に頼まない!」
ハチはふんっと鼻息荒く一歩を踏み出した。
まだ少し足を引きずっている竹千代に呆れつつも、ハチはその歩調に合わせて、ゆっくりと隣を歩き始める。二人の旅路は、いよいよ高崎、そして信濃の険しき山道へと向かっていった。




