第八話 蕨宿(1)焼き味噌につられて
江戸を発ち、中山道を北上し始めて数刻。
荒川を渡る難所「戸田の渡し」を越えたあたりで、竹千代の歩みが目に見えて鈍くなった。
「おい、竹千代。どうした、マメでもできたか」
先を行くハチが振り返る。ハチは男装の裾を「裁着袴」で絞り、軽快な足取りだ。対する竹千代は、江戸城を抜け出した時の姿のままで、およそ長旅には向かない格好だった。
「……このくらい、何の。余は柳生新陰流の免許皆伝だぞ。足腰の鍛錬など、日常茶飯事だ」
竹千代は額に汗を浮かべながら、やせ我慢で胸を張るが、その足取りは明らかに引きずっている。
ハチは呆れたように溜息をついた。
「免許皆伝が聞いて呆れるよ。道場の中と街道の砂利道は別物だって、じっちゃんが言ってたよ」
「じっちゃん……?」
ハチは内心で舌打ちした。気が緩みすぎだ。
「ハチを育てた祖父上のことだ、きっと素晴らしい方なのだろうな。機会があれば是非一度ご挨拶したいものだ」
竹千代はふうふう言いながら、探りを入れてくる。
(まったく、油断も隙もない。カマをかけようたってそうはいくか)
竹千代は、案外切れものだ。
だが、足を痛めているのはさすがに演技ではないと思いたい。
「……次の浦和宿まで行きたかったけど、この先は上り坂だ。手前の蕨宿で休んで、旅装を整えるよ」
蕨宿は、中山道で江戸から二番目の宿場町だ。
道幅が狭く、古い建物がひしめき合うように並んでいる。旅人でごった返す中、竹千代はハチの袖を掴んで引き寄せた。
「どうした、人混みに酔ったのか?」
「……ハチ、余から離れるなよ。迷子になったら困る」
「子供かよ。ほら、肩を貸してやるからしっかりしろ」
ハチは竹千代の腕を自分の肩に回させた。
がっしりした剣豪らしい手の感触と、高めの体温が衣服越しに伝わり、ハチの心臓が不意に跳ねた。
(……いけない、いけない。これはただの『人質への情け』だ。子犬に飛びつかれたのと同じだって!)
自分に言い聞かせながら歩いていると、どこからか香ばしい、食欲をそそる匂いが漂ってきた。
二人は鼻をひくつかせながら、匂いの出どころを探した。
「……味噌の焦げたような、甘辛い香りがする」
「鰻だね。蕨の名物『宇治丸』だってさ」
匂いに誘われるまま、二人はふらふらと一軒の飯屋へ吸い込まれた。
土間の席に腰を下ろすと、竹千代が何かに気づいたように立ち上がった。
「……すまない、厠へ行ってくる。ハチ、先に頼んでおいてくれ」
「ああ、わかった。味噌焼きと塩焼きがあるけど、どっちがいい?」
「そなたに任せる」
竹千代が店の奥へ消えるのを見届けてから、ハチは若女将に声をかけた。
城では「塩焼きの鱚」ばかり食べていたという竹千代のために、一番精のつく味噌焼きを二つ頼む。
一人、席で鰻を待つ間、ハチは「なぜ竹千代と道連れになったのか」を自問自答した。
(中山道を行くなら信濃の追分までは私と同じだし、面倒を見てやれなくもないからな……。きゅんきゅん鳴いてすがる子犬を山中に置き去りにできるほど、私は冷たい人間ではないのだ。断じて、情に流されたのではない!)
まもなく、鼻をくすぐる香ばしい匂いの膳が運ばれてきた。
きゅう、とお腹がかわいい音で鳴き始める。仕方がない、ハチは先にいただくことにした。
箸を入れると、脂の乗った身がふっくらと柔らかくほぐれる。
炭火で炙られた濃厚な味噌の香ばしい匂いが、湯気となって立ち上った。
熱々の身を口に運ぶと、鰻の微かな苦味と味噌の甘味が絶妙に絡み合い、舌の上でとろける。
はふはふと頬張りながら、ふと、竹千代が「城の膳はいつもぬるい」と嘆いていたことを思い出した。
「せっかくの美味い宇治丸だ。冷める前に食べさせてやりたいのに……」
首を伸ばして辺りを見回した。
箸と腕が当たる小気味良い音、咀嚼音、駄弁る声、煙管の煙——、その中に連れの気配はない。
ハチはため息をつくと、竹千代の分の膳に、冷めないよう木蓋をそっと被せてやった。
「あいつ、どんだけ長いクソしてるんだ」
おいしい味噌焼きを食しているときに、他人のクソ事情など考えるものではないと思い直し、ハチは無心になって残りの飯と鰻をかきこんだ。
*
ご飯粒ひとつ残さずに綺麗に平らげると、ハチは箸を置いて湯呑みに手を伸ばしながら、さりげなく周囲を伺った。肌にピリピリと張り付くような、不穏な視線が絡みつくのを感じる。
(……物盗りか。それとも、さっきの野盗の仲間か?)
首から下げた「重い頭陀袋」の位置を直しながら、胸元を確認する。
ふところには短筒と懐刀。さらに小袖の下、分厚いサラシをぎっちりと巻きつけ、その間に隠した「硬い感触」——。
(じっちゃんから預かった手紙……。これだけは、絶対に無くせない)
布越しにその重みを確かめた瞬間。
「ハチ、待たせたな。宇治丸は美味かったか?」
我に返ったハチは、慌てて手を引っ込めて待ち人を見上げた。




