第七話 初めての試し斬り
「──待て。行くな。余はまだ、そなたのことを何も知らない」
遠ざかる背中に向けて放った言葉は、竹千代自身も驚くほど切実な響きを帯びていた。
ざっくばらんな話し方、しなやかな身のこなし。
強がって悪ぶっているのに、隠しきれない善性。
欲のなさ、引き際の良さ、そして、出自を予感させる気高い矜持。
竹千代は、立ち止まったハチの背中を射抜くように見つめる。
生まれて初めて、手放したくないという強烈な執着が、竹千代の胸を支配していた。
ハチは振り返り、呆れたように肩をすくめた。
「そんな格好では無理だよ」
歩き出したハチの背中を、竹千代はひたすら追いかけた。
ハチは男装の小姓姿の下に脚絆を巻き、笠を背負い、銀の詰まった重い頭陀袋を斜めに懸けている。それは明らかに、江戸近辺を歩くための格好ではない。一方、竹千代は夜歩き中にさらわれた姿のままだ。遠出するにはあまりにも無防備すぎる。
「上野へ向かっているな? いや、その旅姿なら目的地は近場ではあるまい。中山道を行くのか?」
竹千代の指摘に、ハチの眉がぴくりと跳ねた。
「……だったら何だよ」
「ハチも知っての通り、余は将軍宣下のために上洛する前夜、そなたに攫われた。余の父は『遅参』にめっぽう弱くてな。朝廷相手ならなおのこと、絶対に遅参は許されない。よって、上洛軍本隊は余の影武者を立てて、予定通りに出発した」
竹千代は、関ヶ原の遅参を一生の不覚として父・秀忠がどれほど神経質になっているかを思い出し、内心で苦笑した。
「今さら余が江戸城にのこのこ現れたら、誘拐事件が発覚して大騒ぎになる。幕府の威信は失墜し、誰かが責任をとって腹を切ることになるだろう。そなたも、無事では済まないぞ」
ハチの顔がみるみる青ざめていく。竹千代は、ハチの「責任感」という急所を的確に突いた。
「じゃ、じゃあ、上洛軍を追いかければいいだろう! 東海道だ。こっちとは真逆だよ!」
「上洛軍には影武者がいる。鉢合わせになれば偽物だとバレてしまうだろう? ゆえに、余は中山道で密かに上洛すると決めたのだ。ハチ、そなたと一緒にな」
「はあ!? 私は上洛なんてしないよ!」
「ほう、では目的地はどこだ?」
「それは……っ」
ハチは言葉に詰まり、視線を泳がせた。嘘をつけない性質なのだ。
「そなたには余をさらった責任がある。途中まででよい、旅は道連れだ。……それとも、余をこのまま野垂れ死にさせる気か?」
ハチが「ぐぬぬ」と唸り、断る理由を探してぶつぶつと呟き始めたその時だった。
街道から外れた人気のない林の奥。夕闇に紛れて、野犬のようなぎらついた視線を感じ、ハチの背筋が凍りついた。
「……ちっ、野盗か」
人さらいとしての責任感か、それとも本能か。
ハチは元・人質を守るように竹千代の前に立ちはだかった。ふところに手を入れ、武器の選択に一瞬迷う。
一方で、竹千代はすでに悟っていた。
江戸からずっと影のように付きまとう、正勝とは別の不穏な気配に。
「来たか」
ハチが迷ったその刹那。
竹千代が抜き放った白刃が、夕暮れの赤い光を反射して一閃する。
──ドサリ。
生暖かい血飛沫が頬をかすめ、肉塊が泥の上に倒れる重い音が響いた。
静まり返った山林の奥から、驚いた山鳥たちが羽音を荒々しく立てて一斉に飛び立っていく。
ハチは、息を呑んで立ち尽くしていた。
目の前には、返り血を浴びながらも、呼吸一つ乱さぬ竹千代の背中がある。
「初めての試し斬りとしては、まあまあか」
竹千代は冷徹につぶやき、懐紙で刃の血を拭うと、流れるような所作で納刀した。
おおかた、神田明神での騒ぎを見ていた浪人者が、ハチの大金を狙ったのだろう。
竹千代は、最高の「見せ場」を作ったつもりで、上機嫌に振り返った。
「どうだ! 少しは見直しただろう、ハチ」
血糊のついた顔で無邪気に笑う竹千代。だが、ハチの表情は凍りついたままだった。
「ハチ?」
「……さよなら」
ハチは震える声でそう言うと、弾かれたように歩き出した。
「待ってくれ! 怒っているのか? どうして!」
竹千代は慌てて追いすがった。
ハチは振り向きもせず、肩を怒らせてずんずん先へ行ってしまう。
「待ってくれハチ。余は何か悪いことをしたか?」
「そうだよ、悪いことだよ! 私がおまえに、こんな悪いことをさせたんだ……!」
「余はただ、そなたを守りたかっただけで……」
「人を殺したんだよ! どうしてそんなに平気でいられるの!」
竹千代はためらいがちに、だが平然と「武門の棟梁とは、そういうものだからだ」とのたまった。
ハチは胸を突かれたように足を止めた。一瞬、目の前の若君に底知れぬ恐怖を覚える。だが同時に、穏やかだった「じっちゃん」もかつては戦場を血に染めた猛将だったことを思い出した。
「……余が怖いか?」
竹千代の問いに、ハチは首を横に振った。
「ううん、怖くない。竹千代は悪くない」
「それなら……」
竹千代は同行を許されたと思って顔を綻ばせたが、ハチは沈痛な表情で首を横に振る。
「もう戦国の世じゃないんだ。むやみに人を殺しちゃいけないよ」
「承知した。ハチが言うなら、もうしない」
「あとね、やっぱり竹千代は帰ったほうがいい。私についてきたら、ろくなことにならない。……きっと、お母さんが心配してるよ」
その言葉が出た瞬間、竹千代の表情がさっと凍りついた。
うつむき、傷ついた幼子のように沈黙する。ハチは「これで諦めたか」と思い、一抹の寂しさを感じながらも背を向けようとしたが、それ以上進めなかった。着物の袖を強く掴まれていた。
「いやだ」
「竹千代……?」
「もう、ハチが嫌がるようなことはしない。だから……余を見捨てないでくれ。頼む」
今にも泣きそうな顔で縋り付く竹千代の手のひらが、微かに震えている。ハチは言葉を失った。
じっちゃんの旧敵、東軍の総大将・徳川家康の孫——。
人質だと言うのに、まるでこの事態を楽しんでいるかのような呑気な振る舞いに、天下の将軍家の跡取りはどれほど甘やかされて育ったのだろうと、勝手に想像して呆れていた。ときどき見せる冷徹な双眸、野盗を平然と切り捨てた姿に戦慄を覚えたばかりだ。
だが、ハチは今、思いがけず竹千代の心の深淵に触れてしまったことに気づき、激しく動揺した。
どうして? 何があったんだ?
にわかに、竹千代の生い立ちが気になった。
だが、ずっと「詮索するな」と突っぱねてきた手前、事情を詮索するのは憚られた。今確かなことは、傷ついたこの子を置いていけない。それだけだった。
ハチは溜息をつき、竹千代の顔についた血を自分の手ぬぐいで優しく拭った。
「怪我はしてないか?」
「……うん」
「こんなことをさせて、ごめんよ」
全部、自分が始めたことだ。この若君は巻き込まれただけの被害者なのに、自分は勝手に怯えて当たり散らして……。ハチは自嘲気味に笑った。
「信濃までだ」
「えっ……」
「中山道を通って上洛するんだろう? 信濃までは一緒に行ってやる」
「ハチ!」
竹千代は、嬉しさのあまりハチを力一杯抱きしめた。
「わっ、ちょっと! 苦しいってば!」
ハチは驚きながらも、どこか捨てられた子犬をなだめるような手つきで、竹千代の背中をよしよしとなでた。
「次の宿場町で旅装を整えよう。なにせ路銀はたっぷりあるからな!」
ハチはいたずらっぽく笑い、ふところを叩いて胸を張った。
そして、にわかに距離感が照れくさくなったのか、竹千代を優しく引き剥がすと、顔を真っ赤にして頭をかいた。
「……まだ言ってなかったな。助けてくれて、ありがとう。竹坊」
夕暮れに照らされて朱色に染まったハチの顔を、竹千代は愛おしく見つめていた。




