第五話 身代金(1)敗者の祟り
「おっと」
ハチは考え事をしていて、埋立地の泥に足を取られかけた。
「まったく、あいつと話してると調子が狂う」
この辺りは水路と陸路の交差点で、漁師と人足がせわしなく行き交う。
使いっ走りの小姓などいくらでもいる界隈だから、ハチを気に留める者などいない。
雑念を振り払うように、足元にしつこくこびりついた泥を払う。
「明日には解放してやれる。あいつとはそれでおしまい。だから、深く考えるのはやめよう」
俊敏な猫を思わせる足取りで、日比谷入江の隠れ家から神田へ向かう。
波がちゃぷちゃぷと打ち寄せ、遠浅の海から潮の香りが風に乗って鼻腔をくすぐる。ハチはこの匂いが好きだった。
江戸城では、加賀前田家の普請でついに大天守が竣工し、いよいよ城下町の整備に本腰を入れる。
遠浅の海はいい漁場だろうに、神田山を切り崩してその土砂で日比谷入江を埋め立てている。つぶすのは惜しいと残念に思うが、内地出身じゃないハチに深入りする権限はない。
入江から湿地へ、鬱蒼とした葦原に身を隠しながら、なだらかな神田山を見上げる。
削り取られた山肌が、夕日に照らされて赤土の牙のようだ。天気が良ければ富士山まで見通せる抜群の眺望だとか。近い将来、この辺りは武家屋敷でひしめくのだろう。
さて、江戸幕府開府以前から、この地には名所があった。平将門の首塚である。
(じっちゃんは関ヶ原の敗軍の将だけど、この神様も朝廷に逆らって負けたんだっけ。気が合いそうだ)
将門塚のすぐ傍らに鎮座する神田明神は、江戸城から目と鼻の先にある。
徳川の膝元で大胆な騒ぎを引き起こすのは、なんとも小気味よい。
境内には、奉納された供物に紛れて墨色の頭陀袋が置かれている。
一見すると参拝者の忘れ物のようだが……。
しきたり通りに手を合わせて祈るふりをしながら、決行の瞬間を待った。
夕闇の迫る境内の物陰に、参拝者とは別種の、低く鋭い呼吸の気配を感じる。身代金に手をつけた者を捕らえる手はずなのだろうが、そんなことは想定済みだ。
(そろそろだ)
その時、将門塚の方面で閃光が走り、鼓膜を震わせる凄まじい轟音が響いた。
参拝者と通行人が悲鳴を上げ、物陰で見張っていた連中も気を取られた。
「何だ、落雷か?」
続いて二発目。ツンと鼻を突く硝煙の臭いとともに、まるで玉手箱を開けたかのような白い煙がもうもうと立ち込め、風に乗って境内を白いもやで包みこんだ。人々はすぐに混乱状態に陥った。
「将門公の祟りだーーー!!!」
騒ぎと煙幕に乗じて、ハチは目当ての頭陀袋をつかんだ。
ここまでは想定通りだったが、持ち上げた瞬間、腕が引きちぎれんばかりの重量がハチを襲った。
(重っ!? なんだこれ、嫌がらせか!? こんなの持って走れるか!)
中身を改めると、小判ではなく、ナマコのような形をした不格好な銀の塊――丁銀がぎっしりと詰まっていた。夕暮れの光の中で、表面に刻まれた駿府の金蔵の極印が冷たく鈍く光っている。
(これは罠か? それとも幕府の金蔵は五十両分の小判すら用意できないほど貧しいのか?)
ハチは焦った。身代金が重くて動けなくなって捕まるなど、末代までの恥だ。
(ええい、多すぎる荷物は旅の邪魔だ!)
頭陀袋に手を突っ込むと銀の塊をがばりと鷲づかみ、賽銭箱に投げ込んだ。
ガランガラン!と激しい音を立てて吸い込まれていく音を聞きながら、身軽になったハチはそそくさと来た道を引き返した。
境内を離れると煙幕も薄らいでくる。
「やれやれ。半分捨てたようなものだけど、まあいいや。これで私の罪も少しは軽くなるだろう」
罪を犯した帰り道なのに、たっぷりお賽銭をして罪悪感が薄れたハチは、妙に軽い足取りで夜の帳へ消えていく。
だが、その背後——。
境内の外で博打に興じていた戦国崩れの浪人たちが、ずっしりと重そうな袋を抱えたハチに注目していた。暗がりのなか、飢えた野犬のようなぎらついた視線が、ごきげんな背中にねっとりと突き刺さっていることに、まだ気づいていなかった。




