第四話 日比谷入江(2)君の名は
口に握り飯を押し込まれて、竹千代は目を白黒させながら、ゆっくり飲み込んだ。
ふざけて所望した茶はなかったが、なけなしの漬物と干物をあぶっただけの粗末なおかずが用意されると、竹千代はいちいち目を輝かせた。口からこぼさないように、上品に時間をかけて咀嚼して飲み込むと、しみじみとつぶやいた。
「……温かい。これほど温かい膳は、生まれて初めてかもしれん」
「大げさな奴だな。ただの握り飯だろうが」
人さらいは呆れたように鼻で笑ったが、竹千代の反応はどこまでも真剣だった。
「この魚もそうだ。焼きたてというのは、これほどまでに香ばしいものなのか」
「ただの鯵の干物だよ。……おまえ、本当に城で何を食わされてたんだ?」
「味気ない『ぬるい膳』さ」
豪勢な膳をたらふく食べているだろうに罰当たりな坊ちゃんだと、人さらいは内心で呆れたが、
「余の膳は『真心』よりも『用心』が優先される。魚といえば毎日毎食、塩焼きの鱚ばかり。魚偏に喜ぶで縁起がいいという理由でな。しかも、膳奉行の毒見を済ませて、配膳される頃には飯も汁もすっかり冷めきっている」
なるほど。ぜいたくな悩みだが、同時に哀れでもある。
「……人さらい殿、そなたが手づから焼いた魚は、城で振る舞われたどんな馳走よりも美味いぞ」
ふざけているのか、本気なのか。
無邪気に称賛されて、こそばゆさを感じずにいられない。
(まったく、酔狂な坊ちゃんだ。これがあの徳川家康の孫ねぇ……)
竹千代が完食したのを見届けると、人さらいは携帯食の干し飯を口に放り込んだ。
「それは何だ?」
「私の飯だ……。まさか、まだ食べ足りないのか?」
「そなたと同じものが良かった……」
「言っておくが、おまえの方にいいものを食べさせたんだからな。感謝しろよ」
竹千代はこくこくとうなずいた。
人さらいは乾き物を湯冷ましで流し込み、ふと思い出したように名乗りを上げた。
「名前か……。そうだな、とりあえずハチジョウとでも呼べ」
投げやりに名乗ると、竹千代はしばらく逡巡した後、にっこりと笑った。
「ほう、いかにも良家の血筋らしい立派な名だ。……さては、今上帝の叔父君であらせられる八条宮様のご落胤か?」
人さらいは、口に含んでいた湯冷ましを盛大に吹き出した。
「げほっ! な、何を……宮様のご落胤が、こんな煤けた小屋で賊の真似事をするわけないだろうが! 不敬すぎる!」
「いや、案外わからないぞ。高貴な者ほど泥臭い生活に憧れるものだ。現に余がそうだ」
「……おまえはただの変人だ」
「ううむ、違うのか。八条宮様の縁者でないならば、次なる予想は……」
「よけいな詮索は無用だと言っただろう!」
釘を刺すと、竹千代は「黙っていると、余計なことを考えてしまうタチでな」と困ったように笑った。
「……あのなぁ、竹千代。私はそんな立派な人間じゃないよ。呼び名は『ハチ』でいい」
竹千代の屈託のなさに当てられたのか、胸の奥にある罪悪感がチクリと疼く。
「承知した。では、余は『竹坊』、そなたは『八つぁん』だな」
「なんだそりゃ。長屋住まいの隠居か何かか?」
「いいじゃないか。今この時だけは、余は将軍家の世継ぎではなく、ただの竹坊だ。八つぁん、そなたはカネに困っているのか?」
唐突な問いに、ハチは沈黙した。竹千代は逃がさぬように言葉を重ねる。
「何か事情があるのだろう? 聞かせてくれないか。協力的な人質は、そなたにとっても都合が良いはずだ」
甘い言葉で懐柔しようとしているな、と直感した。
そうは行くかと、ハチはふてぶてしい笑みを浮かべた。今の自分は「身代金目的で無実の人をさらった」罪人だ。
「はっ、これは傑作だ。征夷大将軍の世継ぎが悪党の片棒を担ごうっていうのか?」
「そなたは悪党ではあるまい」
竹千代は至極まじめに、ハチの瞳の奥を覗き込むように見つめた。
心を見透かされそうな気がして、ハチはたまらず顔を背けた。
「……おまえ、本当に変な奴だな」
視界の端で、小屋の隙間から差し込む光が橙色に染まり始めた。
身代金引き渡しの刻限が近づいている。
「さてと」
ハチは立ち上がると、竹千代の拘束が緩んでいないか確認した。
竹千代は相変わらず無抵抗で、されるがままだ。
せめてもの情けで、縄のあとがつかないように手加減して縛った。
「もう少しの辛抱だ。いい子で待ってな」
「ハチ、用心しろよ。江戸の夜は、案外物騒だぞ」
人質らしからぬ忠告に、ハチは鼻を鳴らした。
「ふん、おまえに心配される筋合いはないよ。じゃあな」
強がって振り向きもしないハチの背中を、竹千代はにこにこしながら見送った。
バタン、と板戸が閉まり、ハチの足音が完全に消え去る。
その瞬間、竹千代はさっきまでの笑みを、仮面を外すように剥ぎ取った。
宵闇の迫る小屋の中。じわりと冷えていく空気のなかで、暗がりに浮かぶその双眸には、怜悧な光が宿っている。
「ハチジョウ……?」
ゆるい縛が解けないようにじっとしながら、竹千代は真顔で思索に耽った。




