第三話 日比谷入江(1)出迎え
一方その頃、船着場の小屋の中では、簀巻きにされた竹千代がふんふんとのんきに鼻歌を口ずさんでいた。
夜がうっすら明けるころ、音もなく扉が開き、竹千代は会心の笑顔で顔を上げた。
「……なんだ、おまえか」
「『なんだ』とは何事ですか、若君!」
現れたのは、竹千代の乳兄弟であり親衛隊たる馬廻番頭の稲葉正勝だ。
同輩の中でも極めて優秀な男で、将来の老中候補と目されている。
竹千代は数え年で二十歳という若い盛りで、三年前に元服したばかり。正勝は七歳年上である。
「そろそろ上洛軍本隊が発つ刻限だ。こんなところで道草を食っている場合じゃないだろう、正勝」
正勝は、ぐるんぐるんに縛られて芋虫と化した主人を見て絶句し、慌てて脇差しを抜こうとした。
「あなたほどの手練れならば、こんな縄などいつでも解けるでしょうに!」
「馬鹿を言え。あの子が必死に結んでくれた縄……いや、絆だぞ。それを無下に解くなど、無粋の極み。余は今、完璧に人質らしくしているのだ」
「何が完璧ですか、ただの道楽でしょう!」
竹千代は縄を切られては敵わんと、みずから縛を解いた。
剣術と同様、縄抜けくらいは柳生新陰流の嗜みとして心得ている。
「さて、首尾はどうだ?」
正勝から、城内では影武者を立てて予定通りに上洛軍の行軍を開始した経緯を聞き出すと、満足そうに頷いた。
「本隊が京に着くまで、余は自由というわけだ。おい正勝、余の身代金はいくらだ? 身代金はたっぷり弾んでやってくれ」
「正気の沙汰とは思えません。どうかお考え直しを」
「断る」
「お福様がどんな想いで上洛の輿に乗られたかご存知なのですか」
「……お福には、後で美味い京菓子でも奢って機嫌を直してもらうさ」
お福は竹千代の乳母であり、正勝の実母だった。
「……そうカリカリするなよ、正勝」
「上洛前夜に、次期将軍をさらうなど大罪の極みです。落ち着いていられましょうか! 若君の身柄を確保次第、あの賊をただちに捕らえます」
「少し待て。何か事情があるのだろう。余が直々に聞きだしてみせよう。だから……」
「これは遊びではありません。重大な陰謀です。裏で誰が糸を引いているやら」
「少なくとも、あの子は悪人ではない」
「何を根拠にそうお考えなのか、ぜひとも聞かせていただきたい」
「ただの勘さ。正勝も知っての通り、余は武芸百般とまで行かずとも腕には自信がある。浪人崩れの野盗、ましてや華奢な子供ひとりにやられるほどヤワではない。せめてあの子の素性を見極めるまでこのままでいさせてくれ」
趣味であれ武芸であれ、この若き主人はひとつのことに執着すると非常に頑固で、納得するまで極めないと気が済まない性質だ。
長年の経験からここで連れ帰るのは不可能と察すると、正勝は深く溜息をつき、「……御意」と答えて闇に消えた。
入れ替わるように、人さらいが戻ってきた。
怪しまれないように、竹千代は再びみずから拘束されて簀巻きに戻った。我ながら完璧な人質ぶりである。
隙間だらけの板戸から差し込む朝の光のもとで改めて見直すと、やはりその横顔は可憐な少女にしか見えない。
無骨で無粋な正勝の手に託さなくて正解だったと、竹千代は思いを新たにした。
「おかえり。首尾はどうだった?」
竹馬の友を出迎えるように、明るく無邪気に尋ねた。
だが、人さらいは元気なく肩を落とし、沈痛な面持ちで顔を上げた。
脅迫状を出しに行く前、竹千代を簀巻きにして転がしたときの威勢はすっかり消えている。
「……おまえの母親を見かけた」
「ほう!」
「かなり、つらそうだった。……ごめん、あんな顔をさせるつもりじゃなかったんだ」
「へえ、そうなんだ」
人さらいの沈痛な声とは対照的に、竹千代の返事はひどく冷淡だった。
(あいにく、余の母上は、余が消えて喜ぶことはあっても泣くような人ではないのだよ……)
おそらく、乳母のお福を見かけたのだろう。
実母である「お江の方」との過去を思い出し、竹千代の胸中に空虚な風が吹く。
江はかつて、竹千代を廃嫡して弟の国松を次期将軍に据えようとした。
お福が、当時健在だった祖父・徳川家康に命がけで直訴しなければ、今の自分は存在しない。
今回の誘拐劇が母の差し金である可能性すら、竹千代は疑っていたのだ。
だが、人さらいの反応から推測すると、江の方やお福の人相を知らないようだ。
誘拐犯が母の手下ではないとわかると、竹千代は機嫌を取り直してすぐにいつもの調子に戻った。
「そんなことより腹が空いた。なにせ、昨夜から何も食べていない」
「あ、あぁ、ごめん……」
「拘束されて手が使えないからな。人さらいの作法として、人質を飢え死にさせるわけにはいくまい。そなたの手で食べさせてくれ」
竹千代は簀巻きのまま芋虫のようにモゾモゾと身をよじり、鳥の雛が親鳥に餌をせがむように、無邪気に口をひらいた。
「ほら、あーん」
「はあ!?」
「そんなに眉を吊り上げるな。その困り顔、実に画になる。この手が自由なら、今すぐ描き留めたいほどだ」
「……おまえ、本当に頭大丈夫?」
人さらいは呆れながら、ふところから竹の皮に包まれた握り飯を取り出した。米の甘い匂いがふわりと広がる。白く細い指先が、不器用そうに竹千代の口へとそれをねじ込んだ。
「もごもご……そんなにいっぺんに押し込まれては、喉につかえてしまう。茶はあるか? 白湯でも良いぞ」
「うるさい。黙って食え」
「あと、そなたの名を教えてくれ。いつまでも『人さらい殿』では呼びにくい」
「なんでおまえが仕切ってんの!?」
威勢の良い叫びが、朝の入江に響き渡った。




