第三十二話 伏見城(2)人質の約束
「ハチ」
竹千代がためらいがちに一歩足を進める。その瞳には、かつてない葛藤が揺れていた。
「余は……そなたを、こんな窮屈な城に閉じ込めたくはない。……だが、手放すのも、酷く惜しいのだ」
それは、天下の主宰者となる男の、あまりにも不器用な本音だった。
もし竹千代が権力に物を言わせて「側室になれ」と命じたら。あるいは、それ以下のいわゆる「お手つき」を望めば、誰も逆らうことはできない。だが、竹千代はそんな卑劣なやり方でハチを縛ることを、絶対に自分に許さなかった。どこまでもハチの心を、自由を、尊重しようとしていた。
その苦しげな顔を見て、ハチの緊張が、ふっと小気味よく解けた。
「まったく……。竹千代は、外では偉そうにしている癖に、私の前ではいつまでも甘えん坊の子犬みたいだね」
「なっ、子犬とは何だ!」
「ふふ、図星だろ。……分かってるよ、何を言いたいかくらい」
ハチは一歩、逆に竹千代へと踏み込んだ。
長かった中山道の旅路。互いの想いも、不器用な人柄も、すでに知り尽くしている。
「いいかい、竹千代。私は今、おまえの『人質』だ。でもね──その気になれば、いつだってここを出ていけるんだからね」
かつて、ハチが竹千代を人さらいとして捕らえていた時、縄の縛りはいつでも解けるほど緩かった。竹千代はその気になればいつでも逃げられたのに、自分の意志で、ハチの人質であり続けたのだ。
立場は逆転した。
今、徳川という巨大な城に囚われているハチも、まったく同じ気持ちだった。いつでも逃げられる。それでも、自分の意志でここにいる。
──江戸に帰還し、祖母・豪姫にじっちゃんの手紙を渡す、その時までは。
竹千代はハチの言葉の真意を悟り、ハッと目を見開いた。そして、愛おしさに胸を震わせながら、確かな声で言った。
「……ならば、江戸で豪姫に会うその時までは。余の『人質』でいてくれ」
「うん。……約束だ」
ハチは小さく頷いた。
そして内心で、静かに決意する。──江戸に帰るその時までに、あの紅を、自分の唇に差す勇気を引き出してみせる、と。
「そうだ。いつも貰ってばかりだから、私からもお前にこれを預けておくよ」
「ん? 何だ?」
ハチが懐に手を入れ、すっと取り出したもの。
それを見た瞬間、一歩後ろに控えていた稲葉正勝の顔が、恐怖で引きつった。
「なっ……短筒だと!? お前、それをどこに隠し持っていた!?」
ハチの小さな手のひらに乗っていたのは、あの旅を共に生き抜いた、錆びついた火縄短筒だった。天下の新将軍の目前で物騒な兵器を取り出されたのだから、正勝が声を裏返すのも無理はない。
だが、ハチは小首を傾げて、大真面目な顔で言い放った。
「どこにって、別に隠してないよ? 懐に入ってた。……今まで、出すきっかけがなかっただけだ」
そのあまりにもハチらしい、奇想天外で大真面目な一言に、張り詰めていた庭園の空気が一気に弾けた。
「ぷっ……あははははは!」
竹千代は腹を抱え、声を上げてけらけらと笑い出した。あまりに笑いすぎて、目尻に涙が浮かんできた。
「お前というやつは……! 本当に、最高の相棒だな!」
竹千代はハチから短筒を受け取ると、愛おしそうにそれを抱えた。
可憐な宇喜多の八重姫に、とうに恋い焦がれているのは間違いない。だがそれ以上に、自分を一切特別扱いせず、窮屈な世界からいつでも笑い飛ばして連れ出してくれる、この「相棒・ハチ」のことが、竹千代はたまらなく大好きなのだと、心の底から実感していた。
紅を差す勇気を出そうと心に誓ったハチ。
短筒の重みから、数奇な出会いに思いを馳せる竹千代。
儀式が終われば、舞台は江戸へ。二人の旅は、まだ終わらない。
新緑の風が、笑い合う二人の頭上を、どこまでも爽やかに吹き抜けていくのだった。
〈完結〉
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最後までお読みいただき、本当にありがとうございました!
本日をもちまして、本編はぶじに完結となります。
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週末に、本作のこぼれ話をまとめた「番外編」を投稿予定です。
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