第三十一話 伏見城(1)差せない紅
元和九年、初夏。
東海道と中山道の終着点であり、京の都の入り口たる「三条大橋」は、目も眩むような新緑の柳と、川面を渡る爽やかな風に包まれていた。
竹千代こと徳川家光率いる上洛軍一行は、宇治川を臨む要衝・伏見城に逗留していた。城内は朝廷からの使者が頻繁に訪れ、数日後に迫った「三代将軍宣下」の儀式に向けて、文字通りひっくり返るような忙しさに追われている。
その伏見城の一角、お福に充てがわれた住まい——。
ハチは今、竹千代の「客人」として、表向きはお福の部屋子という形でこの部屋に滞在していた。公的な場に、素性のあやふやな「宇喜多の姫」を同伴するわけにはいかないという、大人の配慮である。
お福もまた、ハチを迎えることにまんざらでもない様子だ。お福には実子が三人いるが、いずれも男子ばかり。そのため、まるで我が娘のようにハチをいたわり、可愛がっていた。
そんな折り、「短い時間だが、若君がお会いになるそうだ」と正勝が呼びに現れた。
「……はぁ」
お福の部屋の間借りしている鏡台の前。
ハチは小さく息を吐き、手元にある小さな「紅の器」を見つめていた。
旅の途中、碓氷峠の隠れ家で、竹千代から手渡された大切な贈り物だ。
トクトクと高鳴る胸を抑えながら、ハチは濡れた薬指でそっと鮮やかな紅をすくった。これを唇に差せば、それは「女」として竹千代の想いを受け入れるという、無言の意思表示になる。
だが──、唇に触れる直前で、指先が小さく震えた。どうしても恥ずかしさが勝り、ハチは「あぁもう!」と逃げるように懐紙で紅を拭き取ってしまった。
「無理無理、私にはまだ早すぎる……!」
紅の器をそそくさと袂にしまい込む。
結局、唇に紅を差すことはできなかったが、鏡に映るハチの目元と頬は、すでに化粧の必要がないほどほんのりと桜色に染まっていた。当然、それは初夏の暑さのせいなどではない。
*
対面の場となったのは、初夏の陽光が新緑を青々と照らす、伏見城の静かな庭園だった。
忍び旅で色褪せた旅装から一転、再会した竹千代は葡萄色の直垂姿で、苔むす枯山水にたたずんでいた。征夷大将軍だけに許された特別な色の正装だ。今の竹千代は、どこからどう見ても高貴なる武家の棟梁である。絶え間なく続く祝賀行事の合間を縫って、やっとの思いで抜け出してきたのは一目瞭然だった。
「……会いたかった。お福の元で、何か困っていることなどないか?」
竹千代が、少しぎこちない様子で声をかけてくる。
ハチもまた、いつもの大雑把さをどこかに置き忘れたように、そわそわと小袖の袖をいじった。
「お福様には、それこそ呆れるくらい可愛がっていただいてます。……それより、これ」
ハチが着ているのは、竹千代から贈られたばかりの、夏に備えた「紗」の薄物単衣だった。風を通す美しい織物は、見た目以上に着心地が良く、ハチは袖を通しながら感嘆の息をもらしたばかりだ。
「気に入ってもらえたか?」
「はい……」
「そうか。それなら良かった……!」
竹千代は安堵したように微笑んだ。
「……できれば、桶川宿の時のように、ともに京の町屋に繰り出して選びたかった」
ぽつりとつぶやいたその声は掠れていて、妙に寂しげだった。
「竹千代……?」
ハチは非礼を承知の上で、顔を覗き込んだ。
少しの間見ないうちに、竹千代こと徳川家光は「三代目・征夷大将軍」として激務に揉まれ、どこか大人の男の顔つきになりつつあった。
格式張った大軍勢に傅かれながら、この若君は、己の着物ひとつ自由に選ぶことすら許されない。
この国を背負う若き新将軍の、窮屈で、冷徹な現実。ハチは竹千代の佇まいからそれを肌で実感すると同時に、彼が幼い頃から、どれほど多くのささやかな幸せを諦めてきたのかを悟り、胸がちくりと痛んだ。
——実母との確執のせいだろうか、竹千代は数え年で二十歳という若い盛りになっても女性に一切の興味を示さなかったという。廃嫡騒動が収まった後も、かつての政敵は「男色ゆえに子が為せぬならば、世継ぎに不適格」などと、隙あらば悪意をささやく。
お福がハチに目をかけて、部屋に住まわせているのは、竹千代のようやく芽吹いた恋心を摘まないためでもある。
もし、碓氷関所で正勝に「側室になる気はあるか」と聞かれた際、前向きな返事をしていれば、ハチは今頃、客人待遇ではなく側室候補となっていたはずだ。だが、ハチはまだ、自分の気持ちに自信が持てずにいた。
(⚠️葡萄色の直垂:高位の武家の正装だが、この色は征夷大将軍専用。直垂自体は、現在、大相撲の行司の装いとして見ることができる)




