第三十話 草津宿(2)竹千代の切り札
草津宿の本陣、最も奥深くにある一室。
そこは、女たちの和解の温もりとは正反対の、肌を刺すような冷たい緊張感に満ちていた。
床の間に掲げられた三つ葉葵の掛け軸の前。上座に座る二代将軍・徳川秀忠は、端正な顔をこれ以上ないほど般若のように歪め、激怒していた。
「不届き千万! 己の立場が分かっておるのか、竹千代!」
秀忠の怒号が部屋を震わせる。
その怒りの理由は明白だった。我が息子であり、徳川の次期将軍たる世継ぎが、趣味の夜歩きが高じて不覚にも「人さらい」に攫われ、中山道を連れ回されていたという大不祥事である。
「武門の棟梁たる者、自覚に欠けるにも程がある! かつて駿府の大御所様を巻き込んだ廃嫡騒動が辛うじて収まったというのに、このような醜態、御台所(お江)の耳に入ってみろ! 将軍不適格と言われても、もはや弁明の余地などないわ!」
秀忠がここまで激昂する根底には、正室・お江の方への恐怖があった。織田信長の姪であり、浅井三姉妹の三女であるお江は、徳川の奥を統べる絶対的な存在だ。文句を言われないためにも、竹千代は「完璧な世継ぎ」でなければならなかったのだ。
しかし。
嵐のような説教を受ける当の竹千代は、すっかり「世継ぎ・家光」の非の打ち所のない正装に身を包みながら、退屈そうに爪を眺めていた。そして、平然と言い放った。
「──間に合ったのだから、良いではありませんか」
「な、何だと……!?」
「予定通り、上洛軍の京入りには微塵の遅れもございません。むしろ、中山道を大きく迂回する羽目になりながら、一刻の《《遅参》》もなく草津で本隊と合流してみせたのです。父上におかれては、叱責ではなく、余の健脚をお褒めいただきたいくらいですな」
竹千代はふっと不敵に唇を持ち上げ、あえて「遅参」という二文字を強調した。
その瞬間、秀忠の顔がカッと真っ赤に染まった。
遅参──それは、秀忠の生涯最大の不覚であり、消し去りたい過去である。四半世紀前の関ヶ原の戦いの際、中山道を進んだ秀忠の本隊は、真田の足止めを喰らって本戦に遅れるという大失態を演じていた。
実の息子から、最も触れられたくない過去の傷口を抉られた秀忠は、怒りで小刻みに震え、言葉を詰まらせた。
「お、おのれ、竹千代……! 親に向かって何たる言い草を……!」
「まあ、そう怒らないでください。迂回したおかげで、余は大変良いものを目にしてまいりました」
竹千代は、すっと声音を落とした。からかうような響きが消え、底知れない冷徹な「支配者」の眼光が秀忠を捉える。
「……信濃の、高遠城に寄ってまいりました」
「なっ……!?」
秀忠の息が、物理的に止まった。真っ赤だった顔から、一気に血の気が引いていく。
「ご安心ください、父上。幸松丸は、とても利発そうな良い子でしたよ。年の離れた余の弟としては、上出来すぎるほどに」
「どうして……、どうしてあの子の存在を、そなたが知っている……!」
秀忠は取り乱し、声を潜めて竹千代に詰め寄った。
幸松丸。それは、お江のあまりに激しい気性におびえた恐妻家の秀忠が、侍女との間に密かに儲け、こっそり保科家に預けた「隠し子」だった。もしこの存在が江戸のお江に知られれば、徳川の城内は文字通り大炎上し、秀忠の立場はなくなる。
「趣味の城下夜歩き中に、立ち寄った茶屋でたまたま噂話を聞いただけです。この目で見るまで半信半疑でしたが……やはり、父上のご落胤でしたか。はっきりと答え合わせができて、すっきりいたしました」
竹千代は、してやったりと愉快そうに目を細めた。たまたま噂を聞いたなど方便に過ぎない。ハチに攫われた旅路の中で、すべての情報を繋ぎ合わせ、高遠城で確信を得ていたのだ。
「知っているのは……そなただけか? お福や、正勝は……。まさか、御台所には……!」
完全に主導権を奪われ、怯える秀忠を見て、竹千代は追い詰めるように囁いた。
「さあ、どうでしょう。これからの父上の『ご配慮』次第、といったところでしょうか」
「……配慮、だと?」
秀忠は、ごくりと唾を飲み込んだ。
竹千代は、ここからが本題だとばかりに、端正な顔から笑みを消し、交渉の切り札を畳に叩きつけた。
「今回、余を攫ったとされる『人さらい』の件にございます。宇喜多家の八重姫。……この者を不問に処し、余の『恩人』として認めていただきたい」
「馬鹿な! 徳川の世継ぎを拐かした大罪人だぞ!?」
「いいえ。徳川の世継ぎが誘拐されたという事実など、最初からどこにもございません」
竹千代は、事も無げに言ってのけた。
「父上のご落胤であり、余の異母弟たる幸松丸に、母上に秘したまま極秘裏に面会するための『お忍びの旅』。宇喜多の姫はその道中の案内を買って出てくれた、我が恩人にございます。……そういう方便にすれば、ご公儀の威信も傷つかず、父上の立場も守られる。違いますか?」
秀忠は、目の前の我が子を、ただ呆然と見つめるしかなかった。
人さらいという歴史的大不祥事を、父親の不倫の隠蔽と、異母弟への情愛という「美談」へと一瞬でひっくり返してみせたのだ。これならば、誰も罪に問われず、体面も保たれる。
政治的な狡知、状況の利用、そして親の弱みを握って平然と交渉する度胸。
「……分かった。そなたの言う通りに処理しよう」
「賢明なご判断、感謝いたします、父上」
竹千代は満足そうに一礼すると、ごきげんな足取りで、一切の迷いなく退室していった。
一人残された秀忠は、どっと深い疲労感に襲われながら、畳に手を突いた。
偉大すぎる父・家康の顔色を常に窺い、生真面目さと石橋を叩くような慎重さだけで生きてきた自分。それに比べて、あの竹千代の、なんと大胆不敵で、恐ろしく、頼もしいことか。
「……あやつめ。父上の血を、最も濃く継いだのは、わしではなくあやつだったか」
秀忠の口から漏れたのは、呆れと、そして我が子の底知れぬ大物ぶりに対する、深い感服の吐息だった。徳川の三代目は、間違いなくこの国を統べる「本物の怪物」になる。
翌日、草津宿を発った上洛軍本隊は、堂々たる行軍で逢坂関を越え、目前に迫る京の都へと向かった。
朝廷からの将軍宣下の儀を待つ伏見城、そして三条大橋はもう目と鼻の先だ。
竹千代とハチの旅路は、ついに終着点へたどり着こうとしていた。




