第二十九話 草津宿(1)交わり
信濃路を西へ、そして美濃、近江の峻険な山並みを駆け抜けた中山道の旅路が、ついに一つの終着点を迎えていた。
中山道と東海道──東国から京へと繋がる二つの大動脈が、一本の太い道へと結ばれる場所。近江国、草津宿。
そこは、押し寄せる人馬の波と、旅籠から立ち上る飯炊きの煙で、地響きのような活気に満ちあふれていた。京の都までは、もう目と鼻の先である。
高遠城での夜襲を退けた竹千代たちは、稲葉正勝の手引きにより、一足先に草津宿へと滑り込んでいた。ここで、東海道を平地伝いに上ってきた、数万を数える徳川の上洛軍本隊と合流するためである。
「……参りましょう。母上がお待ちです」
宿場町の一角に構えられた、本陣たる巨大な旅籠。その奥御殿へと続く廊下を歩きながら、正勝が緊張の面持ちで声をかけた。
隣を歩くハチは、いつになく口数が少ない。その身には、あの高遠城で正勝が買い与えた紅染の小袖が、しとやかに揺れていた。
ハチの胸は、不安と緊張で潰れそうだった。
これから会うのは、竹千代の乳母であり、徳川家光という「天下の世継ぎ」を実質的に育て上げた、お福という女性だ。
いくら竹千代が「人質として庇護する」と言ってくれたところで、自分が犯したのは、将来の将軍を誘拐したという国家を揺るがす大罪だ。どんなに激しく折檻されるか、あるいは厳しい目を向けられるか、覚悟のうえでの対面だった。
(竹千代のやつ……、こんな時に限っていないなんて……)
当の竹千代は、本隊と合流して「世継ぎ・家光」の姿に戻るための儀礼の準備にと、別室に連れていかれてしまっていた。今ハチの傍らにいるのは、胃痛を堪えるような顔をした正勝だけだ。
やがて、正勝が重厚な襖の前で足を止め、声を張り上げた。
「母上。稲葉正勝、ただいま宇喜多家の八重姫をお連れいたしました」
「お入りなさい」
中から響いたのは、鈴を転がすような、されど芯の通った涼やかな大人の女性の声だった。
襖が開かれる。
薄暗い室内の奥。上座に凛と背筋を伸ばして座っていたのは、初夏らしく涼やかな絽の色打掛を羽織った、気品あふれる中年の女性──お福であった。
その顔を見た瞬間、ハチの脳裏に、旅の始まりの記憶が鮮烈に蘇った。
(あっーー!)
思い出した。江戸城下で、厳かな上洛軍の行列の中にいたあの女性だ。あの時、ハチは彼女のことを、竹千代の「母親」だとばかり勘違いしていた。
お福の鋭い眼光が、ハチを真っ正面から射すくめる。その表情は険しく、冷徹な威厳に満ちていた。
しかし、ハチは怯まなかった。
これまでの大雑把で粗野な「人さらいのハチ」の顔は、そこにはなかった。ハチは畳の上にしなやかに膝をつくと、一度袖を合わせ、武家の作法として寸分の狂いもない美しい所作で、深く頭を垂れた。宇喜多秀家の孫娘として、じっちゃんから叩き込まれた、気高き姫君の振る舞いだった。
「宇喜多左宰相秀家が孫、八重にございます」
──左宰相。かつて豊臣の世で五大老にまで上り詰めた、祖父・秀家の最も誇り高き官名を、ハチは今、震える唇で正しく紡いだ。
「この度は、私の身勝手により、ご公儀の世継ぎ君を拐かすという消えぬ大罪を犯しました。すべては私の独断。どのような処罰もお受けいたします。お福様、どうか、お許しください……」
凛とした声が、静まり返った室内に響く。
頭を下げたままのハチの前で、お福はしばらく沈黙を守っていたが、やがて、隣に控える実子の正勝へ視線を向けた。正勝は、黙したまま小さく頷いた。すでに、これまでの道中の顛末を母に伝えてある。もちろん、竹千代本人からの強い取りなしの手紙も届いている。
張り詰めた沈黙の後、お福の口から漏れたのは──深い、深い吐息だった。
「面を上げなさい、八重姫」
ハチが恐る恐る顔を上げると、驚いたことに、お福の険しかった表情はすっかり消え去り、そこには慈愛に満ちた柔らかな微笑みがあった。
「若が誘拐されたと聞いた時は、本当に生きた心地がいたしませんでした。下手人を捕らえた暁には、五体引き裂きの上、獄門に処してくれようと息巻いていたのです。……ですが、正勝からあなたの事情を聞き、気が変わりました」
お福はそっと膝を進め、ハチの前に手を置いた。
「わたくしは、かつて織田信長公に叛旗を翻した明智光秀が重臣・斎藤利三の娘にございます。本能寺の変の後、父は処刑され、わたくしは一族もろともお尋ね者となり、幼い頃はそれは惨めで、不遇な日々を過ごしてまいりました」
お福の瞳に、遠い過去の痛みがよぎる。
また、かつて竹千代が廃嫡の危機に瀕した際には、お伊勢参りと称して駿府の大御所・家康へ直訴しに走ったほどの情熱と気骨を持つ女性だ。ハチの「敗軍の将となった祖父のために奔走した」という深い思慕ゆえの無謀な忠義心が、他人のものとは思えなかった。
「主家を失い、敗者となり、それでも誇りを捨てずに生きる苦しみ……宇喜多家と、わたくしの過去の境遇は、重なるところがあまりに多うございます。身内のために、ただ一人で島を飛び出してきたあなたを、どうしてわたくしが責められましょうか」
言葉の代わりに、ハチの瞳から堪えていた涙がこぼれ落ちた。
きつく当たられることも、折檻されることも覚悟していた。それなのに、徳川の重鎮であるこの女性は、ハチの罪の根底にある「心」を、誰よりも深く理解してくれたのだ。
「若の取りなしもございます。あなたの罪は、すべて若の『お忍びの旅の護衛』という形にすり替え、お咎めなしといたします。……よう、若をここまで連れてきてくれましたね。感謝いたします」
お福はハチの華奢な肩を優しく抱きしめた。
そして、ハチの耳元で、お福はふふっと小さく悪戯っぽく笑った。
(それに……あの気難しい若君が、生まれて初めてあんなに必死になって守ろうとした、大切な初恋のお相手ですもの。育ての母として、ここで意地悪をするわけにはまいりませんわね)
心の中で、お福は温かく二人の行く末を見守る眼差しを向けていた。
ハチはお福の温もりに包まれながら、張り詰めていた心の糸が解けていくのを感じていた。罪は許された。じっちゃんの手紙のことも、きっと竹千代がなんとかしてくれる。
けれど、安堵のすぐ裏側で、ハチの胸にはチクリとした寂しさが芽生えていた。
草津宿で本隊と合流したということは、あの、うるさくて、しつこくて、けれど不思議と悪い気はしなくて、そして何よりも心地よかった「竹千代との二人旅」が本当に終わってしまったことを意味していた。
名残惜しくとも、感傷に浸っているわけにはいかない。
江戸に引き返して、祖母・豪姫にこの顛末を報告してじっちゃんの手紙を手渡すまで、ハチの旅はまだ終わったとはいえないのだから。
ハチは目元を拭い、もう一度、お福に向かって深く一礼した。
その頃、本陣のさらに奥の間では、ハチを救うための「次なる化かし合い」のために、竹千代が静かに牙を研いでいた。




