第二十八話 高遠城(2)極意・無刀取り
みしり、と骨のきしむ音が、静まり返った茶室に響く。
竹千代に小袖の袖越しに拳を限界まで締め上げられ、老刺客はついに堪えかねたように指の力を抜いた。床の間の八重桜が揺れるほどの鋭い音を立てて、一振りの小太刀が畳の上へと転がり落ちる。
万策尽きたか──。
覆面の奥の老剣豪は、しかし怯む風もなく、老いてなお盛んな眼光を竹千代へ向け、悔しそうに、けれどどこか感服したように声を絞り出した。
「その若さで……拙者を謀り、返り討ちにされるとは。見事なり……!」
その時、静寂を破って茶室の襖が勢いよく左右に開け放たれた。
「若っ! お怪我はございませぬか!」
「竹千代!」
脇差に手をかけた稲葉正勝と、灯りを手にした人影が室内に飛び込んでくる。
その瞬間、竹千代の視線は、刺客から完全に逸れて釘付けになった。
「ハチ、なのか……?」
そこにいたのは、見違えるほど可憐な姿のハチだった。
すっかり見慣れた地味な男装ではない。身に纏っているのは、真新しい紅染の小袖だった。裏地のない単仕立てとはいえ、淡い光に照らされたその姿は、床の間に飾られた八重桜が化身となって歩き出してきたかのように、あまりにも鮮やかで愛らしかった。
竹千代は思わず息を呑み、囮となるために屈めていた背筋を無意識にすっと伸ばした。だが、すぐに己の立場を思い出し、掴んでいた老人の拳を離さぬまま、ぐっと気を引き締め直す。
「……動くな。中条流の『名人越後』殿とお見受けする」
中条流剣術。それは室町・南北朝時代に中条長秀によって創始された、剣術のみならず、槍術や組み打ちまで含む古流の総合武術である。とりわけ、間合いを詰めて一撃で急所を穿つ小太刀術においては、「生みの親」とまで称される、恐るべき流派だ。
竹千代は冷徹な眼差しを老人に据え、厳かにその名を紡いだ。
「改めて問う。加賀百万石を誇る前田大納言利家、利長、利常の三代に仕える剣術指南役──富田重政で、相違ないな?」
老刺客は答えず、ただ沈黙を以てそれを受け止めた。
かたわらでハチが、丸くした目をさらに大きくして交互に見比べる。
「知り合いなのか? 竹千代、やけに詳しいじゃないか」
「初対面だ。だが、大御所様……余の祖父がかつて病床の加賀大納言を見舞われた際、名人越後の素晴らしい剣術でもてなされたという話を、幼い頃に聞いたことがある」
竹千代の言葉を聞いた瞬間、老人の目がわずかに揺れた。
剣の才を見出され、齢十一の頃から一途に仕えた前田利家。病床の主人を見舞った徳川家康。そして、それを直に聞き及ぶ立場にある「若君」。老剣豪の脳内で、萌黄色の小袖を着たあどけなさを残す若者の正体が、一本の線となって完全に繋がった。
「神妙にいたせ」
正勝が刀を突き出し、竹千代に代わって老人を捕らえようとする。しかし、富田重政は捕らわれの身でありながらも、泰然とした態度で首を振った。
「拙者は前田家三代にお仕えしてきた身。とうに息子に家督を譲って久しい身にございます。老骨に鞭打ち、ただ主家に仇なす種を摘もうとしたまでにございまする」
「ご謙遜を」
竹千代はふっと唇を歪めた。
「隠居の身なれど、主家に従い大坂の陣に参戦し、敵陣へ突入して十九人の首級を挙げたという凄まじき武功、こちらも聞き及んでいる」
「……拙者も聞き及んでおりまする。将軍家の世継ぎは、柳生但馬守の新陰流に師事されていると」
「いかにも。師より直々に免許皆伝を授かっている。ちなみに、余の特技は──『無刀取り』だ」
富田重政は、覆面の奥でニヤリと白髭を震わせて笑った。
「……拙者と同じでございますな」
竹千代が師事する柳生新陰流と、富田重政の中条流。
時代も系譜も異なる二つの流派には、奇妙な共通点があった。相手の武器を奪い、あるいは刃を無力化する「無刀取り」の極意。そしてその根底にある思想は──「むやみに戦わないこと」にある。
重政は痛めた利き手を静かに引いた。
前田家にとって、宇喜多秀家の血を引く不審者が江戸近郊をうろつくのは不穏の種である。戦国を生きた気骨ある忠臣が、加賀入り前に先手を打って不穏分子を消そうと考えたのは自然ななりゆきだった。
しかし、今ここでハチに危害を加えれば、次代の将軍たる竹千代から永遠に恨みを買うことになる。それは百万石の主家にとって、破滅を意味する。
「碓氷峠での襲撃は、すべて主家の安泰を望むがゆえの、拙者の独断にございます。もしご公儀から咎めを受けるのであれば、拙者一人に沙汰を下されますよう」
「承知した。ハチ……いや、宇喜多家の遺児・八重姫は、これより余の完全なる庇護下に置く。前田家一同、手出しは一切無用と心得よ」
竹千代の堂々たる宣言に、老剣豪は深く頭を垂れた。
「……御意」
重政は床の小太刀を拾い上げると、気配を消し、開け放たれた襖から夜の竹林へと、煙のように消え去っていった。
*
張り詰めていた空気が霧散し、数寄屋造りの離れに安堵の息が漏れる。
一件落着──と思われた、その時だった。
「ちょっと待ってよ、竹千代!」
ハチが鋭い声を上げて、竹千代の胸元をびしっと指差した。
「ひとつだけ、聞き捨てならないことがあるんだけど!」
「む? な、何だ、急に改まって……」
「じっちゃんは八丈島でまだピンピン生きてる! 私は『遺児』じゃなーい!」
「あ……。す、すまん、言葉の綾でつい……」
天下の徳川家の世継ぎともあろう若君が、男装の少女の剣幕に押されてしどろもどろになる。正勝が呆れたようにため息をつく中、ハチはふん、と鼻を鳴らしてそっぽを向いた。
その拍子に、紅染の小袖の裾がふわりと揺れた。
先ほどまでは緊迫した状況で見惚れる暇もなかったが、改めて見ると、男装姿の反動もあってか、ハチの瑞々しい肌や華奢な体が驚くほど艶かしく感じられて、竹千代はどぎまぎと狼狽えた。
萌黄色の小袖を窮屈そうに脱ぎ捨てながら、ハチの姿をじっと見つめ、ふと眉をひそめた。
「……ところで、ハチ。その小袖は一体どうしたのだ? どこで手に入れた」
すると、それまで後ろに控えていた稲葉正勝が、待ってましたとばかりに一歩前へ出て、誇らしげに胸を張った。
「ふふ、よくぞ気づいてくださいました、若! 実は、桶川宿の染物市で、若が紅花の反物を熱心に眺めておられたのを、この正勝、しっかりと拝見しておりました! 『若は藍染より紅花がお好みなのだな』と察しまして、代わりに私が購入しておいたのです!」
正勝は、これ以上ない会心の援護射撃をしたと言わんばかりの満面の笑みだ。若の好みを察し、先回りして宇喜多の娘に買い与え、囮作戦の裏で着替えさせておく。完璧な側近の仕事だと自負していた。
だが。
「……正勝」
竹千代の声が、地を這うように低くなった。
「は、はい?」
正勝の背中でいやな汗が流れた。冷徹な響きはただごとではない。
「……なぜ、そなたがハチに贈り物をしているのだ?」
「へっ? いや、それは、若のために気を利かせて……」
「余が! 買い与えるはずだったのだぞ……!!」
竹千代は、床の間がガタガタと震えるほどの猛烈な怒気を放っていた。
「余計な真似はするなと! あれほど申しつけたのに、しゃしゃり出てきおって!!」
「な、なぜ私が怒られているのですかーーーっ!?」
理不尽に叫ぶ正勝の声を遮るように、離れの外では鹿威しの澄んだ音がカコーンと鳴り響いた。




