第二十七話 高遠城(1)対峙
信濃国、高遠城——。赤石山脈の山々に抱かれたその城は、中山道から少し南へ外れた天険の要塞だった。城主である保科肥後守正光は、実子なき不遇の身であったが、数年前からある「重大な秘密」を抱え、ひっそりとこの地で暮らしている。
非公式の訪問。それも、お忍びの旅の途上であるという。
身分を明かさぬまま、稲葉正勝の口利きだけで客人として迎えられた竹千代が通されたのは、城の最奥に位置する《《数寄屋造り》》の離れだった。茶室の様式を取り入れた、質素ながらも洗練された平屋の武家屋敷だ。余計な装飾を削ぎ落とした木肌の清々しい匂いと、竹林に囲まれた静寂が、旅の疲れを優しく癒やしてくれる。
だが、この静謐な空間こそが、前田家の刺客をおびき寄せるために竹千代が選んだ舞台だった。
薄暗い茶室の真ん中。
竹千代は、一枚の小袖を身に纏い、静かに背中を向けて座っていた。
鈍い萌黄色の生地。それは、あの雨の碓氷峠でハチが着ていたものだった。刺客に斬られた引き裂き傷は、ハチの手で不器用ながらも丁寧に継ぎ合わされている。
「……これで、よし」
竹千代は自分の大柄な体をハチの着丈に合わせるよう、わざと少し身を屈め、小袖の襟を深く合わせた。
背後から見れば、誰もが「ハチ」と誤認するだろう。刺客の狙いは、ハチの命とその懐にある宇喜多秀家の手紙だ。ハチと正勝を別室に伏せさせ、自らが囮となる。これ以上の策はなかった。
その時、廊下から微かな足音が聞こえ、茶室の襖が静かに開いた。
「失礼いたします」
入ってきたのは、まだ十二、三歳ほどに見える少年だった。前髪を残した端正な顔立ちに、仕立ての良い小袖。その手には、水を入れた一輪挿しの花器が大切そうに抱えられている。
少年は畳に膝をつくと、丁寧に一礼した。
「幸松丸と申します。父の言いつけで、床の間に飾る花を持ってまいりました」
幸松丸。——その名を聞いた瞬間、竹千代の背筋が微かに緊張する。
間違いない。この少年こそが、父・徳川秀忠がその生涯で一度だけ、側室でもない侍女に手をつけて生ませた「隠し子」であった。正室・お江の怒りを恐れた父によって、ここ高遠の保科家に極秘裏に養子として預けられた、竹千代にとっては血を分けた異母弟である。
竹千代は「ハチ」として振る舞うため、顔を半分隠すようにして、声を低く押し殺した。
「幸松丸、といったな。……見事な花だ。この時期には珍しいな」
花器に活けられていたのは、薄紅色のぽってりとした大きな花弁を持つ、遅咲きの八重桜だった。近隣の山々ではすでに桜などとうに散り果てているというのに、その一枝だけが、いまを盛りに咲き誇っている。
「はい。お城の桜は変わり者が多いことで有名です」
「変わり者か。確かに……」
竹千代は、思わず苦笑した。
男の格好をして、じっちゃんのために命を懸けて島を飛び出してきた、あの意地っ張りな少女が脳裏をよぎる。
「特にこの子は、意地を張ってなかなか咲いてくれないのですが……」
幸松丸は、愛おしそうに八重桜のつぼみを見つめ、それから竹千代に純朴な笑みを向けた。
「お客様は運がいい。ちょうど見頃ですよ」
「うむ……。見事なものだな」
竹千代の胸に、じんわりとした温かさが広がる。
遅咲きで、不器用で、けれどひとたび咲けば、誰よりも凛として美しい。やはりハチによく似ている。
その時、幸松丸が床の間に花器を置きながら、竹千代が着ている小袖の、あちこちを継ぎ合わされた破れ跡に気づいた。
「……あ。お客様、その小袖、随分と傷んでおられますね。すぐに着替えをお持ちいたします」
「いや、良いのだ。これは、これで……」
立ち上がろうとする少年を手で制しながら、竹千代は引き留める言葉を探した。
血の繋がった弟が、これほど健やかに、聡明に育っている。その姿を、もう少しだけ見ていたかった。
「……連れは、何をしている?」
「お連れの方ですか? 側仕えの方と、何やら中庭の物陰で真剣に話し込んでおられましたが……。お呼びいたしましょうか?」
「いや、大丈夫だ。邪魔をしては悪い」
ハチのやつ、正勝と上手くやっているだろうか。まさか、二人きりではあるまいな……?
心のうちに芽生えたかすかな焼きもちに気づくと、竹千代はかすかに笑った。
幸松丸は不思議そうにしながらも、もう一度深く一礼した。
「では、ごゆっくりお寛ぎください」
小さな足音が遠ざかり、襖が閉まる。
茶室は、再び深い静寂に包まれた。
*
日が落ち、数寄屋の周囲は急速に闇に呑まれていった。
油皿の灯火が、ぽつんと一つ。萌黄色の小袖を着た竹千代の影を、障子に大きく映し出している。
——その時だった。
風もないのに、竹林がざわりと揺れた。
次の瞬間、天井の隙間から、あるいは後ろの戸のわずかな隙間からか。気配すらなく、音もなく、一筋の冷たい風が茶室の空気を切り裂いた。
来た。
障子の影が動くと同時に、闇のなかから、一振りの短い刃が突き出された。
室町より続く総合武術・中条流の真骨頂——、一撃必殺の小太刀術である。
狙いは正確無比。萌黄色の小袖を着た、ハチと思しき人影の首筋へ向けて、音もなく刃が肉薄する。
しかし。
突き出された刃は、虚空を掴んだ。
ハチと見紛うばかりの華奢な背中が、あり得ない速さの体捌きで滑るように横へブレたのだ。柳生新陰流で培われた身を躱す妙技。それだけではない。
小袖の袂が、まるで生き物のように翻った。
刺客が驚愕する間もなく、その大きく余った萌黄色の袖が、小太刀を握る刺客のこぶしを上から完全に包み込み——、ガッチリと、万力のような力で握りつぶした。
「……なっ!?」
刺客の口から、初めて低い漏れ声が上がった。
こぶしの骨がきしむ。小太刀の刃は、竹千代の喉元わずか一寸のところで完全に止められていた。
竹千代は小袖の袖越しに相手のこぶしを掴んだまま、ゆっくりと闇の中で振り返った。油皿の灯火が、その精悍な面容を照らし出す。
(人違い……!? いや、まさか……!)
月光の下、覆面の隙間から覗く刺客の目が、驚愕に大きく見開かれた。
白髪交じりの眉、老人とは思えぬ強靭な肉体。
「《《名人越後》》ともあろうお方が、夜襲とは恐れ入る」
竹千代は不敵に唇を歪め、さらに相手のこぶしを締め上げた。
「……我が師直伝、柳生新陰流の『無刀取り』はいかがであろう?」
加賀前田家三代に仕える剣術指南役にして、戦国随一の剣豪、天下に名だたる名人越後・富田重政は今、萌黄色の小袖を着た徳川家三代目——若き世継ぎの前に、完全に動きを封じられていた。




