第二十六話 信濃衆の勘繰り
二人が隠れ家の炭焼き小屋を発ち、朝靄の残る碓氷峠を越えて、次の軽井沢宿へと差し掛かった時のことだった。
「若ーーーっ!! よくぞ、よくぞご無事でーーーっっ!!」
地を這うような叫び声とともに、稲葉正勝が必死の形相で藪を掻き分けて飛び出してきた。
その後ろには、正勝の呼びかけで山狩り(捜索)に集まった「信濃衆」、すなわち信濃の地侍たちが続いている。
「心配をかけたな、正勝。余はこの通りピンピンしている」
「ああ、恐れ多くも神仏に感謝いたしまする……っ! ……って、若?」
感涙にむせぶ正勝の動きが、ぴたりと止まった。
その視線は、竹千代の隣に堂々と並び立つ男装のハチに注がれる。ハチは、刺客に斬られた前身頃を隠すように、竹千代の「背割り羽織」を《《ねんねこ》》のように身にまとい、胸元をきつく紐で結んでいた。二人の間に流れる、甘酸っぱくも濃密な──これまでとは明らかに違う空気を、正勝が見逃すはずはなかった。
(若……、この一夜の山籠りで、その男勝りな不届き者と一体何が……!?)
正勝の顔が、驚愕と混乱で急速に引き攣っていく。
「若……。失礼ながら、何があったのですか? なぜそやつが若の羽織を……」
「仔細は省く。正勝、この者はこれより余の『人質』とする」
「……は? 人質、にございますか?」
「そうだ、余の庇護下に置く。よって、手出しは一切無用。余計な真似はするなよ」
竹千代は釘を刺すように、鋭い一瞥を正勝にくれた。
正勝は首を傾げながらも、若い主人のただならぬ覇気に圧されて「ははっ……」と引き下がるしかない。
一方、後ろに控えていた信濃衆は、ひそひそと賑やかに騒ぎ始めていた。
「おお、若君が見つかったってよ! よかったなぁ!」
「それにしても、東海道をつたって上洛中のはずの若君が、なんでわざわざこんな中山道の信濃の山奥にいるんだ?」
その疑問を聞きつけると、竹千代は振り返り、威厳に満ちた声で告げた。
「皆のもの、捜索の労、大義であった。こたびの余の行動は、幕府の『秘密の任務』ゆえである。これ以上の詮索、および他言は一切無用と心得よ」
信濃の武士たちは、顔を見合わせた。
「秘密の任務……?」
やがて、一人の地侍がハッと目を見開く。
「おい、わざわざこの信濃の山奥に寄った、秘密の任務ってことは……!」
「やっぱり『アレ』か?」
「それしかないだろ……。大御所様の……、あの、高遠城にいるっていう……」
「しっ、声が大きい! 他言無用と言われただろうが! 詮索すれば首が飛ぶぞ!」
もともと、信濃には将軍家にまつわる重大な秘密が隠されている。
世継ぎの竹千代でさえ、城下での私的な夜歩きが趣味でなければ知らなかった話だ。
地侍たちは、尾ひれだらけの噂話と目の前の事実を結びつけて、勝手に納得し、恐怖と興奮でぶるぶると震えながら口を噤んだ。
竹千代はニヤリと笑うと一同を見渡した。
「信濃国高遠の主は、保科肥後守であったな。山狩りの礼を直接申し上げたい。——これより一同、信濃の高遠城へ向かう!」
地侍たちの地鳴りのような勝鬨が、朝の山々に細かく木霊する。その地響きを背に受けながら、竹千代とハチは歩き出した。
前田家の刺客を迎え撃ち、ハチの身の安全を確実に勝ち取るために、決戦の舞台——高遠城を目指して。




