第二十五話 隠れ家(6)人質逆転
ちちち、と煤けた天井の隙間から、小鳥のさえずりが滑り込んできた。
囲炉裏の火はすっかり消え、代わりに炭焼き小屋の粗末な板の間を、格子の形に切り取られた白い朝光が照らしている。
竹千代がまぶしさに目を細めながら身を起こすと、隣にあったはずの、驚くほど温かかった肉体の気配はすでに消えていた。衣服の乾く、香ばしい匂いが鼻をくすぐる。
「あ、起きた。竹千代はねぼすけだなぁ」
小屋の入り口近く、逆光の中に佇むハチが、快活に笑いながらこちらを振り返った。
すでに小袖と裁着袴を身につけ、身支度を完璧に済ませている。
いつものハチらしい、からかうような口ぶり。だが、その耳たぶがほんのり赤く染まっているのを、竹千代の目は見逃さなかった。
じつは、ハチは夜が明けると同時に飛び起きていた。朝の光の中で、下帯一枚の不作法な姿を竹千代に見られるのが、どうしようもなく恥ずかしかったのだ。昨夜、一枚の掻巻の中で下帯越しに触れ合った感触や鼓動が、頭のなかで何度も弾けた。
ハチは照れを隠すように大股で竹千代に近づくと、その前に膝をついた。
「ほら、さっさと着替えて。髷を結ってあげるよ。島にいたころは、ときどき、じっちゃんの髪結いをやってたんだ」
「……そなたが結ってくれるのか。では、頼もう」
竹千代は可笑しそうに微笑みながら、乾いた小袖と野袴を身につけた。
ハチの手は見た目よりもずっと優しく、甘い鬢付け油の匂いを漂わせながら、竹千代の乱れた髪を手際よくまとめていく。
髪を結い終えると、竹千代は立ち上がり、自分が着るはずだった背割り羽織をそっとハチの肩にかけた。
「ん……?」
「前をしっかり留めれば、刺客に斬られた小袖の傷も目立たない。……少し、大きいな」
前を合わせて紐を結んでやったものの、ハチの体にはいかにも大きく、袖の先から指先が少し覗くばかりでブカブカだ。男装のハチが、急に「着せられている」ような儚げな姿になり、竹千代の胸がかすかに疼く。
「次の宿場で古着屋に行ってみよう。ハチに似合う小袖を探さないとな」
「何言ってるんだよ。次の宿場ってことは信濃追分だろ? 私は北国街道へ行って、加賀に向かわなきゃならないんだ。古着屋に寄ってる暇なんて……」
本来の予定では、京を目指す竹千代は中山道をさらに西へ進み、ハチとはここで決別するはずだった。
「そのことで、余に考えがある」
竹千代がそう言いかけた、その時だった。
ハチが大振りの羽織を持て余していると、袂からころりと小さな丸い漆器が床に転がり落ちた。
「なんだこれ?」
「あっ!」
竹千代が、あからさまに狼狽した声を上げた。
ハチが拾い上げたのは、手のひらに収まる小さな、けれど丁寧に細工された「紅の器」だった。竹千代が桶川宿の賑わいの中で、ハチに気づかれないよう、こっそりと買い求めていたものだ。
「これ、紅……? なんで竹千代がこんなもの持ってるんだよ」
「そ、それは……。信濃追分で別れるときに、餞別に渡そうと思っていたのだ」
竹千代は耳まで真っ赤にし、そっぽを向いてこぶしを握りしめた。
「こんな男装の私に似合うわけないだろ」
「わかっている!」
竹千代はハチの言葉を遮り、まっすぐにその瞳を見つめ返した。その眼差しは熱く、切実だった。
「将来、島に帰ったときか……あるいは、そなたがおなごに戻る日が来たら、使って欲しいと思ったのだ。……いや、たとえ使ってもらえなくとも構わない。それを見るたびに、ともに歩んだ忍び旅を……、余のことを思い出す《《よすが》》になれば、と。……余はな、ハチの心に『余の存在』を刻みたいのだ。忘れられたくないのだ!」
将軍家の世継ぎが、ただ一人の女子に明け透けにその想いを乞う。
もはやハチは笑ってごまかすことなどできず、息を呑み、手の中の紅の器をぎゅっと握りしめた。冷たい漆の感触が、手のひらで急激に熱を帯びていく。
「……忘れるわけ、ないじゃないか。こんな大層な旅をしてさ」
ハチは視線を落としたまま、愛おしそうに紅を袂へと仕舞い込んだ。
「つけても、笑うなよ?」
「笑わないさ」
「……それで、さっきの『考え』ってなんだよ」
「う、うむ。話を戻そう」
竹千代はひとつ咳払いをして、真面目な顔に戻った。
「余の記憶が確かならば……豪姫は、加賀にはいないと思う」
「ええっ? な、何だって!? 早く言ってよ、無駄足になるところだったじゃないか! じゃあ、どこにいるのさ!」
「江戸だ。幕府の人質として、江戸城下に屋敷を与えられている」
「ええーーーーーーっっっ!!!」
炭焼き小屋に絶叫が響き渡った。
あまりの衝撃に、ハチは頭を抱えて足元をふらつかせた。
「もしかしたら、秀家殿もそれはご存知だったのではないか? 愛する孫娘を、到底加賀まで行き着けぬような端金で送り出すとは思えない。……つまり、そなたが八丈島を出て江戸城下に着いた時点で、ほぼ目的地にたどり着いていたということだ」
「じゃあ、何か? 身代金目的で竹千代を誘拐したのも、死ぬ気で碓氷峠を越えてきた旅路も、全部……ぜーんぶ、無意味だったってことか!?」
ハチはがっくりと膝をつき、めまいを起こしたように頭を振る。
そんな相棒の前に、竹千代はそっと歩み寄り、その目線に合わせて屈み込んだ。
「そんなことはあるまい」
竹千代の、低く優しい声がハチの耳に届く。
「江戸城から今日まで、ずいぶん奇妙な回り道をした。だがな、ハチ。余は、そなたと出会い、こうして魂を通わせ、誼を結べた。それは余のこれまでの人生において、最大の収穫だ。……余は、生きていてよかった、そなたが無事で本当によかったと思っている」
「竹千代……」
ハチの瞳に、じわりと熱いものが込み上げる。
無意味などではなかった。この旅がなければ、竹千代のことも、このかけがえない温もりも知ることはなかったのだ。
「だが、ハチの加賀行きが中止になったとはいえ、当面の危機は去っていない。前田家の刺客は、依然としてそなたの持つ手紙を狙っている。問答無用でそなたの命を奪いに来るだろう」
竹千代は立ち上がり、ハチを見下ろして、かつてハチが江戸城で浮かべたような不敵な笑みを唇に刻んだ。
「余は、ハチを守りたい。そこでだ。——ハチよ、今度はそなたが、余の人質になってくれ」
「……は?」
人さらいたるハチと、人質たる竹千代。その立場が、今、鮮やかに逆転した瞬間だった。




