第二十話 隠れ家(1)濁流からの生還
ざぶんと激しい水音が鼓膜を震わせ、鼻腔に容赦なく泥水が流れ込んできた。
増水した沢の激流は、凄まじい質量となってハチの体を翻弄する。八丈島の荒波に揉まれて育ったハチは泳ぎに絶対の自信があったが、行く手を阻む岩や、渦巻く川の濁流は海のそれとは勝手が違った。浮上しようにも上下の感覚さえ曖昧になる。
(……あいつ、は……?)
息が詰まるような暗黒の中で、ハチはただ一つのことだけを考えていた。
崖から落ちる瞬間、確かに見えた泥まみれの竹千代の姿。あれは死にゆく自分が見た夢だったのか。
だが、濁流のなかでハチの体を不器用なほど強く、頑なに抱きすくめて離さない腕がある。
(もし、本当にあいつなら……。あのお坊ちゃん、まともに泳げるのか……?)
ハチの懸念は杞憂だった。
徳川の嫡流たる竹千代は、大権現・徳川家康が遺した厳しい家訓のもと、幼少期から「水練」をみっちりと叩き込まれていた。教育係は戦国の世を生き抜いてきた三河出身の猛者ばかり。着物を着たまま前触れもなく城の堀へ突き落とされたり、重い武具を背負わされたまま遠泳を強いられたりするのは日常茶飯事だった。一見おっとりとしたお坊ちゃんに見えて、竹千代の武将としての器量は、並の侍を遥かに凌駕している。
とはいえ、大嵐で荒れ狂った川の激流だ。いかに徳川の秘術を尽くそうとも、人を抱えて抗うのは困難を極めた。
だが、大権現の加護か、あるいは二人の執念か。
増水によって沢の水嵩が跳ね上がっていたことが、幸運をもたらした。普段なら頭上遥か高くに張り出しているはずの、葉が生い茂った太い木の枝──それが水面近くまでせり出しており、激流に流される二人の体が、そこへ文字通り「ひっかかった」のだ。
「ぐっ、うおおおおおッ!」
竹千代は濁流に足を取られながらも、ハチの体を片腕でがっしりと抱え、もう片方の手で必死に枝を掴んだ。そのまま獣のような泥臭い身のこなしで這い上がり、ついに、水飛沫が吹き荒れる岸辺の泥地へと二人の体を転がせた。
ハチはどこかで頭を打ったのか、一瞬だけ意識を失っていた。
だが、耳元で聞こえる、必死で、情けないほどに震えた声が、意識の輪郭を強引に呼び戻す。
「ハチ! ハチ!! こんなところで死ぬな! 余を置いていくな……っ!」
「う……ぅ、っ……」
「ハチ! 生きているか!?」
胸を強く押されて水を吐き出し、ハチは大きく咳き込んだ。
喉の奥にへばりつく川泥の生臭さに顔をしかめる。
視界を開けば、涙と雨と泥でぐしゃぐしゃになった竹千代の顔が、至近距離で自分を覗き込んでいる。
「うん……っ、げほっ。……助かったのか」
「ああ……! 大権現様に導かれてそなたを見つけた。やはり、ご加護は本物だ……っ」
絶体絶命の窮地を脱した直後だというのに、相変わらずの家康偏愛ぶりに、ハチは思わず「またそれか」と力なく苦笑した。けれど、そのいつもの調子に、張り詰めていた胸の奥がじんわりと安らぎで満たされていくのを感じていた。
竹千代はハチが笑ったのを見て、ようやく安堵の息を漏らす。しかし、その直後、崖で見た光景が脳裏にひらめき、再び血の気が引いたように狼狽し始めた。
「は、ハチ、さきほどあの刺客に斬られただろう!? 体の方は大事ないか? どこをやられた!?」
「え? うん、大丈夫だと思うんだけど……あれ……?」
激流に揉まれたせいで全身ガタガタの打ち身だらけだが、もし本当にあの正確無比な小太刀で胴体をまともに斬られていたなら、今ごろ激痛で呼吸すら満足にできないはずだ。
「暗くてよくわからないな。でも、そこまで痛まないし……」
「傷を負っているのに、余に心配をかけまいとうそをついているのではあるまいな……っ!?」
ハチの曖昧な返答を悪い方に解釈したのか、竹千代はついにボロボロと涙をこぼし、「ハチー、死なないでくれーっ!」と叫びながら子供のようにその体にすがりついてきた。
「おいおい、だから死なないってば。死なない、死なない。ほら、大丈夫だから落ち着けって」
ハチは降参したように笑いながら、びしょ濡れの竹千代の背中をぽんぽんと叩き、大きな子供をあやすようにしてなだめた。じっと抱き合っているうちに、冷え切ったお互いの体温がじわりと伝わり、震えが少しずつ収まっていく。
ふと見上げれば、山の天気は変わりやすい。あれほど猛威を振るっていた嵐はいつの間にか和らぎ、激しかった雨も小降りの霧雨へと変わっていた。千切れ雲の隙間から、冴え冴えとした月光が顔を覗かせる。
ハチはその月明かりと、かすかに見える北極星、そして自分たちが流されてきた沢の位置関係を素早く頭の中で計算した。
(……間違いない。じっちゃんが言っていた隠れ家は、すぐそこだ)
「竹千代、立てるか? 雨風を凌げる場所が近くにある。暗闇ではぐれないように、手を繋いでおこう」
「あ、ああ……」
二人は泥だらけの手をがっしりと繋ぎ合い、ぬかるんだ山道を一歩一歩踏みしめながら進んだ。
やがて霧の向こうに、ひっそりと佇む小さな影が見えてきた。
じっちゃんの「隠れ家」といっても、流浪する逃亡者の身でわざわざ新築したような大層なものではない。もともとは木こりや狩人が山仕事の拠点として使っている古い炭焼き小屋であり、山の急な天候不順の際に、遭難者が雨風を凌ぐための避難場所でもある代物だった。
がたがたと建て付けの悪い引き戸を押し開け、二人は滑り込むように中に入る。
土間の壁際には、長年使い込まれた蓑笠や古びた草鞋、狩猟や伐採に使うための山仕事の道具が所狭しと掛けられていた。部屋の中央には、ささやかな四角い囲炉裏が切られている。
「……火をつけたら敵に居場所がばれないか?」
不安げに外の闇を振り返る。ハチを仕留め損ねたあの前田家の老剣豪の影が、まだこの山を徘徊しているかもしれないのだ。しかし、竹千代は小さく首を振った。
「いや。これまでの刺客の動きから推測して、二人で一緒にいる限り、無茶な襲撃はしてこないはずだ。それに、きっと正勝だって必死でこちらを追ってきているだろうしな」
「なるほど……。一理ある」
念のため、出入り口の木戸につっかえ棒をガチリとはめ込み、厳重に戸締まりをした。
外の嵐の音が遠ざかるのを確認してから、ハチは手慣れた手つきで火打ち石を打ち鳴らした。
カチ、カチ、と闇に火花が飛び散る。やがて火口に熱が宿り、パチパチと炭の爆ぜる音とともに、炭焼き小屋のなかに、小さくも温かい橙色の明かりが灯った。




