第十九話 碓氷峠の戦い(2)落とし物
激しさを増す雨が、容赦なく山肌を叩いていた。
濃霧が渦巻く碓氷峠の険しい山道で、ハチの仕込み杖が闇を裂いた。
びゅん、と空気を震わせて放たれた一人目の初撃を、ハチは身を沈めてひらりとかわす。直後、霧を割って二人目の男が切りかかってきたが、ハチは手元に残した鞘の木筒でその太刀筋を真っ向から受け止めた。
金属と木塊がぶつかり合う鈍い音が響く。相手が次の手を打つより早く、ハチは電光石火の早業で仕込み杖の柄を引き抜いた。
「てやッ!」
剥き出しになった鋭利な刃先が、男の手首を正確に突き刺す。
肉を裂く嫌な感触とともに、男は短い悲鳴をあげて得物を落とした。ハチはその隙を見逃さず、男の胸を容赦なく蹴り飛ばして霧の向こうへと転がす。
「ふぅ……。仕込み杖を持ってきて正解だったな。この雨じゃ、短筒の火薬はしけて使えないし、懐刀じゃ手が滑っちまう」
ハチは荒い息を整えながら、手早く得物を鞘に収めた。
じっちゃんが残した隠れ家へ逃げ込む前に、ここで確実に追っ手を巻いておかなければならない。本気で全員を叩き斬るつもりはなかった。長引けばそれだけ足留めを食う。
それにしても、とハチは周囲に転がる男たちの太刀を見下ろして、内心で鼻を鳴らした。
(こんな木々が生い茂る狭い峠道で、見栄えのいい長刀を振り回すなんて馬鹿だな。チョロすぎる。……こいつら、野盗や山賊の類じゃない。型通りにしか動けない『侍』の仕業だ)
じっと耳を澄ます。嵐のざわめきに混じって、かすかに水の流れる音が聞こえた。
(……せせらぎが聞こえる。沢の位置はこっちだから、隠れ家はあの斜面を降りて──)
そう判断し、ほんの一瞬、次の道筋へ思考を割いた。
そのわずかな油断が、致命的な誤算を生む。
──ゾクッ、と総毛立つような悪寒が走った。
次の瞬間には、霧の結界を破るようにして、一気の呼吸で間合いを詰めてきた影があった。風をも置き去りにする速度で、小振りの刃──小太刀が、ハチの喉元をめがけて襲いかかってきた。
*
同じ頃、泥だらけになりながらハチの足跡を追っていた竹千代は、険しい藪の中で足を止めていた。
激しい雨に打たれ、冷たく濡れそぼった草むらのなかに、見覚えのある鉄の塊が落ちていた。
「これは……ハチの、短筒……?」
拾い上げたそれは、あまりにも冷たかった。
旅の途中、ハチが肌身離さずふところに入れていた武器だ。あの用心深く、機転の利くハチが、こんな場所にうっかり落とし物をするはずがない。
──敵に襲われた。
その確信が脳裏をよぎった瞬間、竹千代の全身を、未だかつて経験したことのない衝動が駆け抜けた。
ハチを狙う見えざる敵への激しい憎悪。ハチが傷つけられ、二度と会えなくなるかもしれないという底知れぬ不安と恐怖。そして何より──なぜ何も言わず、黙って目の前からいなくなったのかという、裏切られたような、置いていかれたような、胸を掻きむしりたくなるほどの怒りと悲しみ。
あらゆる感情が竹千代の中で混ざり合い、若い情熱となって堰を切ったように迸る。
ガチガチと奥歯が鳴り、凄まじい武者震いが止まらない。
「ハチ……! どこだ、ハチーーっ!!」
竹千代は狂ったように叫びながら、短筒をふところにねじ込み、せせらぎの音が聞こえる谷底の方向へと、藪を薙ぎ倒しながら全力で疾走し始めた。
*
激流が渦巻く沢の真上、切り立った崖っぷち。
ハチは完全に、一人の老齢の刺客に追い詰められていた。
「……おまえが、こいつらの親玉か? へぇ、やるじゃないか」
ハチは不敵に唇を歪めてみせたが、握った仕込み杖の手元は、冷や汗で滑りそうだった。
心の中の焦燥は限界に達している。
(巻いているつもりだったのに、いつの間に先回りを……!?)
この老人の身のこなしは異常だった。
一寸先も見えない濃霧のなか、しかも木々が乱立する狭く不安定な空間であるにもかかわらず、小太刀の斬撃は一切の障害物に当たることもなく、正確無比にハチの肉を削りにくる。まるで、最初からこの地形がすべて見えているかのような、恐るべき夜目の持ち主だった。
江戸を発った直後、竹千代が斬り伏せたあの野盗の仲間が復讐に現れたのかと思っていた。
だが、目の前の老人は只者ではない。関所の役人でもない。
ハチには、自分がここまで執拗に狙われる理由が、どうしても分からなかった。
金目的でないとするならば、一体何のために──。
ハチの疑問を見透かしたように、老刺客の低く枯れた声が、雨音を割って響いた。
「……宇喜多秀家殿から、密書を預かっているだろう?」
「密書……!?」
「ご公儀に謀反を疑われるような種は、前田の領内に入れる前に摘む。それが当家の兵法なり」
「なっ……前田家だって!?」
思いもよらぬ正体に、ハチの脳裏に激震が走った。
前田家といえば、流刑になったじっちゃんの命を必死に救ってくれた、恩人のはずではなかったのか。動揺のあまり、ハチの構えがわずかに揺らぐ。
「ちょっと待ってよ! じっちゃんの手紙は怪しいものじゃない! これは単におばあちゃんへの──」
「中身を改めるまでもない。そなたもろとも……、ここで成敗致す!」
老刺客の眼光には、一片の容赦もなかった。
ハチはとっさに仕込み杖を突き出したが、老人の放った小太刀の一閃は、ハチの予想を遥かに超える軌道と速度で下から跳ね上がってきた。
金属の鋭い風切り音。
ハチの生命線だった仕込み杖は、なす術なく虚空へと弾き飛ばされた。
「あっ」
返す刀で、冷たい刃がハチの胸元を鋭く引き裂く。
鮮血が夜の闇に飛び散り、衝撃でハチの身体は、崖の後ろの空間──遮るもののない霧の虚空へと、大きくのけぞるようにして落下していった。
浮遊感——、凄まじい雨の音が遠ざかる。
真っ逆さまに落ちていくハチの視界の隅で、突然、崖の上の藪が爆発したように弾けた。
「ハチーーーっ!!!」
「竹千代……?」
視界に飛び込んできたのは、凄まじい形相で、髪を振り乱し、泥まみれになって崖から飛び出してきた竹千代の姿だった。重力をも無視するような執念で腕を伸ばし、落下の最中、空中でハチの身体を壊れるほど強く抱きすくめた。
「絶対に、離さぬ……!」
耳元で叫んだ直後、二人の身体は、激しい水音とともに崖下の濁流へと呑み込まれていった。
残された崖の上。
老刺客は、小太刀の血を雨で洗い流しながら、沢へと降りようと足を進めた。
だが、その耳が、猛烈な勢いで接近してくる「もう一つの足音」を捉える。並の武芸者ではない。あの気配は、徳川の──。
「……ちっ。これまでか。これ以上の騒ぎは無用」
刺客は低くつぶやくと、追っ手である稲葉正勝が姿を現すより早く、一瞬にして濃霧の奥へとその姿を消し去った。嵐の碓氷峠には、濁流と化した沢からの轟音が虚しく響き渡っていた。




