第十八話 碓氷峠の戦い(1)破天荒な逃亡劇
坂本宿の喧騒を背に、ハチは一人、大嵐の気配に震える山道を急いでいた。
びゅう、と湿った突風が容赦なく体を打ち据え、周囲の木々を激しくざわめかせる。白く濁った濃霧は容赦なく視界を奪い、一歩足を踏み外せば谷底へ真っ逆さまという状況だ。
「本格的に荒れる前に……あそこまで行ければ……!」
ハチは身軽な旅装束に戻っていた。
道中、竹千代と二人で歩んできた中山道は、賑やかで、不器用な優しさに満ちていて、まるで夢のように温かかった。けれど、本来のハチの旅はこれなのだ。竹千代がいなければ、そもそも関所を堂々と通るなどという選択肢はなかった。人目につく宿場町を避け、誰も知らない裏道を孤独に進む──それが、ハチの忍び旅の現実だった。
必要最低限の路銀だけを残し、あのずっしりと重かった丁銀の山は、旅籠の部屋に置いてきた。
あれは、竹千代の隣から永遠に消えるための対価だ。島で困窮にあえぐじっちゃんを救う資金としては喉から手が出るほど欲しかったが、あのまま全額を持ち去ることは、ハチの矜持が、そして何より竹千代への切ない想いが許さなかった。
(竹千代のやつ、今ごろ呆然としてるかもな……)
不意に脳裏をよぎった子犬のような笑顔を、ハチは頭を振って強引に打ち消した。
感傷に浸っている暇はない。一人きりで関所破りを敢行し、目的地へ至るための過酷な旅路が、今ここから始まるのだから。
──大丈夫。じっちゃんのあの破天荒な逃亡劇に比べれば、私の忍び旅なんてかわいいものだ。
窮地にあってなお、ハチの心を支えるのは、八丈島の囲炉裏端で何度も聞かされた、最愛の祖父の誇らしい武勇伝だった。
じっちゃん──備前守・宇喜多秀家。
かつては岡山五十七万四千石を有する大大名であり、小牧長久手、四国、九州、小田原と、あらゆる戦場で武功を挙げた男。文禄・慶長の役では海の向こうで総大将を務め、太閤・豊臣秀吉公が最も信頼を寄せた重臣「五大老」の一人。それが、ハチの祖父のまことの姿だった。
運命の歯車が狂ったのは、慶長五年。天下分け目の関ヶ原の戦いだ。
若かりしじっちゃんは西軍の副大将として参陣した。だが、総大将の毛利輝元公は大坂城に引きこもって結局一歩も出陣しなかったため、実質的な総大将は、最前線で檄を飛ばすじっちゃんだった。
足並みの揃わない西軍にあって、宇喜多軍は最大規模の戦力を投入し、東軍の福島正則らと一、二を争うほどの凄絶な死闘を演じた。宇喜多の兵たちの勇猛さは敵を震え上がらせた。けれど、味方の卑劣な寝返りによって、側面を守っていた大谷吉継公の陣が崩壊。じっちゃんの軍勢は、前と横の二正面から完全に包囲され、なす術なく敗走に至った。西軍は総崩れ──それが、豊臣の世の「終わりの始まり」だった。
敗軍の将となったじっちゃんの逃亡劇は、そこからが凄まじかった。
周囲の西軍諸将が討ち死にするか、あるいは落ち武者狩りに捕まって早々に京で処刑される中、じっちゃんは執拗な徳川の追っ手をすり抜け、丸一年間も諸国を逃げ回った。二年目には遥か南、薩摩の島津家に潜伏する。
だが三年目、天下の趨勢は完全に徳川へと決した。もはや隠し通すことは不可能と悟ったじっちゃんは、自らの命を賭して従ってきた家臣たちを島津家に仕官させると、潔く投降し、身柄を引き渡された。
本来なら、即座に斬首となってもおかしくなかった。
しかし、じっちゃんの正室・豪姫の実家である加賀前田家が、一族の威信をかけて必死の助命嘆願を行ったのだ。その結果、極刑は免れ、八丈島への極遠流罪が決まった。
こうして宇喜多家は没落し、じっちゃんと息子は絶海の孤島へ流され、豪姫と娘は加賀前田家の庇護下で暮らすことになった。
ハチがじっちゃんの昔話の中で、一番気に入っている一幕がある。
それは、敗軍の将として日本中で人相書きが出回っていたまさにその最中、じっちゃんが追っ手と関所の目を鮮やかに出し抜いて、豪姫のいる加賀へ極秘裏に忍び込み、愛しの妻と密会して子供までこさえていたという、嘘のような本当の話だ。じっちゃん最愛の妻・豪姫はハチのおばあちゃんであり、その時生まれた娘が、ハチの叔母にあたる。
(……だから、私にはわかるんだ)
人目を避け、愛する家族に会いにいくための秘密の山道。かつてじっちゃんが駆け抜けた街道の脇道や、いざという時の隠れ家のありかは、じっちゃんの口から耳にタコができるほど聞かされて育った。
「大丈夫。あの大胆不敵なじっちゃんの孫だもん。私は一人でも、ちゃんと行って帰ってこれる──」
そう自分に言い聞かせ、ハチが険しい崖道へ一歩を踏み出した、その時だった。
びりり、と肌の産毛が逆立つような、異様な冷気が霧の奥から這い寄ってきた。
風の音でも、木々のざわめきでもない。それは、明確な意図を持った「刃」の気配。
濃霧の奥から、無数の足音が、湿った落ち葉をサク……サク……と踏みしめる音が微かに響く。
江戸を発ってから何度も、竹千代の後ろに感じていたあの不気味な気配が、今、竹千代と離れて一人きりになったハチを、完全に包囲するようにじわじわと距離を詰めてきている。
ハチははっとして息を呑み、現実に引き戻された。
「……ちっ。あいつから離れた途端に、これかよ!」
仕込み杖の柄をぐっと握り締め、親指でハバキを押し上げる。カチャリ、と冷たい金属音が霧に溶けた。
ハチは漆黒の闇と化した濃霧の奥を、鋭く睨み据えた。




