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【完結】人さらいと辻斬り将軍 〜徳川家光を誘拐したらなぜか懐かれて道連れに〜  作者: しんの(C.Clarté)
本編

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第十七話 坂本宿(2)竹千代の決意

 夕闇が迫る旅籠の軒先で、宿札の吊るされた提灯が激しい風に揺れている。


 割り当てられた一室で、ハチは窓際に立膝でたたずみ、薄く障子を開けて薄暗い霧の海を見つめていた。頬杖をつき、夜着代わりの搔巻(かいまき)を無造作に肩にかけている姿は、どこかこの世の者ではないような、幽玄な美しさを湛えている。


 その物憂げな横顔を、竹千代は少し離れた場所から、ただじっと見つめていた。


 愛らしい少女のようにも、凛々しい少年のようにも見える、整った顔立ち。

 涼しげな目元と、そこから放たれる凛としたまなざし。陽光の下で少し日焼けした肌。

 話している時は少し口が悪くて軽妙で、街道をゆく足取りはしなやかなカモシカのよう。


 それなのに、ふと伏し目がちになった瞬間、長いまつ毛が白い頬に微かな影を落とし、昼間とは全く異なる静謐な印象を醸し出す。隣で眠る姿は驚くほど無垢であどけないのに、今は大人の色気さえ感じさせた。


(だが、余はまだ、ハチの本当の姿を何も知らない……)


 もっと知りたい。もっとそなたのことを教えてほしい。

 隣にいられるだけでこんなに幸せなのに、それと同じくらい、胸が張り裂けそうなほどに苦しい。旅が終わってほしくない。叶うことなら、このままずっと、二人で一緒にいられたらいいのに──。


 竹千代は、己の胸の中で激しく脈打つ、甘く切ない恋心を、はっきりと自覚していた。


 だが、無情にも明日の天気が好転すれば、旅は再開される。

 中山道最大の難所である碓氷峠を越えてしまえば、終着点の信濃追分はすぐそこだ。二人の忍び旅は、そこで約束通り幕を閉じる。


(ハチは意地っ張りだからな。追分に着けば、きっと振り返りもせずに去ってしまうだろう)


 竹千代は、近づく別れに備えて、ある一つの決意を固めていた。


 竹千代は知る由もないが、碓氷関所で正勝はハチに「別れ際に若にすがりつかれたら突き放せるか」と問いかけた。だが、竹千代は、そんな未練がましい真似をするつもりは毛頭なかった。なぜなら、まだ人質だったころ、竹千代は「余は約束を守る男だ」とハチの前で誇らしげに宣言していたからだ。


 将軍家の世継ぎとしての運命を受け入れ、追分ではきれいに別れる。それが竹千代の矜持だった。

 ただ、別れた後に一人になるハチの旅路だけが、どうしても気がかりだった。だから、旅が終わったその瞬間、竹千代は自らの影である正勝に「これからは余の代わりに、ハチの護衛に就け」と命じるつもりでいた。


 しかし──その高貴な決意は、あまりにも唐突に打ち砕かれることとなる。



 混雑する旅籠の騒音の中で、ほんの少し、目を離した隙だった。


「ハチ、起きているか? 胃の腑が空っぽでは体に障ると思ってな、生姜湯をもらってきたぞ」


 竹千代が、ツンと辛みの利いた湯気を立てる茶器を手に部屋に戻ると、相棒の姿はどこにもなかった。

 ハチがたたずんでいた障子はぴったりと閉じられ、部屋の隅には、先ほどまで彼女が羽織っていた旅籠の搔巻が、こんもりと虚しく残されている。外から吹き付ける風が、みしみしと雨戸を不気味に揺らしていた。


「寝ているのか……?」


 嫌な胸騒ぎを覚えながら、そっと搔巻をめくってみる。そこに人影はなく、ただ、ひとつかみ分の丁銀が冷ややかに鈍い光を放っていた。ハチが大事に抱えていた頭陀袋の中身──身代金の一部だ。それ以外の荷物は、跡形もなく消え失せている。


「ハチ……? おい、ハチ!」


 嫌な予感が胸をよぎり、竹千代は草鞋を引っつかんで旅籠を飛び出し、白く濁った宿場町へと狂ったように走り出していた。


 激しい風が叩きつけ、濃霧が視界を白く塗り潰していく。

 どれほど人をかき分けても、ハチの影はどこにも見えない。

 焦燥感に駆られ、なおも走る竹千代の前方に、音もなく一人の男が姿を現した。



「正勝……!」


 竹千代は息を切らせながら、その忠臣の姿に縋るように声をあげた。


「おい、まだ厠の時間じゃないぞ! ……だがちょうどいい、お前に頼みたいことがある」

「若君……」

「ハチのことだ。峠を越えて信濃についたら……いや、それよりも、あいつが急にいなくなって──」

「……竹千代様!」


 遮られた正勝の声は、いつになく低く、沈痛な響きを帯びていた。

 その表情を見た瞬間、竹千代の思考が凍りついた。


 生真面目な正勝が、主君の問いを遮った。その意味を、竹千代の鋭い直感が一瞬にして理解する。ハチは迷子になったのではない。自分の意志で、黙って、竹千代の前から立ち去ったのだと。


 その事実を悟ると同時に、竹千代の全身の肌が、ぞくっと粟立つような衝撃を感知した。

 これまで江戸を発ってからずっと、背後にべったりと張り付いていた、あの刺客どもの陰湿な殺気──それが、この濃霧の宿場町から、きれいさっぱりと消え失せている。異様なほどに何も感じられない。


 それが、何を指し示しているか。

 竹千代の顔から、一気に血の気が引いた。激しい狼狽が、若き胸を突き動かす。


「……正勝! 刺客どもの狙いは、余ではない! 最初から宇喜多の血を引くハチだったのだ!」


 竹千代の隣にいれば、正勝の護衛があるからハチは安全だった。だが、ハチが一人で霧の中に飛び出した今、刺客どもにとって、これ以上の好機はない。


「一人になったあの子が危ない!!」


 叫ぶと同時に、竹千代は背を向けた。


「若君! お待ちくだされ! これ以上は──!」


 背後からの正勝の必死の制止を、竹千代は容赦なく振り切った。

 深編笠を強風に飛ばされながら、若き将軍は、大嵐が牙を剥きつつある濃霧の碓氷峠へと、遮二無二に駆け出していった。


(⚠️搔巻(かいまき):綿入れ半纏の形状をした寝具。掛け布団または室内用防寒着として主に東日本で使用)

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⚠️アルファポリスで先行公開。2026年6月現在、歴史・時代小説大賞にエントリーしています。
▼『人さらいと辻斬り将軍 〜徳川家光を誘拐したらなぜか懐かれて道連れに〜』
https://www.alphapolis.co.jp/novel/394554938/47053912
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