第十六話 坂本宿(1)甘い力餅
碓氷関所の堅牢な門をくぐり抜けた瞬間、ハチの視界に飛び込んできたのは、落ち着きなく右往左往している深編笠の影だった。
ハチの姿を認めるやいなや、その影──竹千代は、まるで待ちわびた主人を見つけた子犬のようにまっすぐ飛びついてきた。笠の奥の瞳が歓喜に揺れ、背後でぶんぶんと激しく振り回されるしっぽが見えるかのようだ。
「ハチーーっ!! 大事ないか!?」
「う、うん。この通り、ピンピンしてるよ」
詰め寄る竹千代の勢いに圧されながら、ハチは引きつった笑みで応じた。
「よかった……! あと半刻も出てこなかったら、余は単身で関所に押し入るところだったぞ!」
「ははは、無茶するなって。役人に目をつけられたらどうするんだよ」
ハチは喉の奥にへばりつくような緊張感を覚えながら、必死に平静を装った。胸の奥では、先ほど稲葉正勝から突きつけられた言葉が、冷たい楔のように刺さったままだ。
竹千代はなおも心配そうに、ハチの顔を至近距離から覗き込んでくる。
「本当に、何もなかったか? 不届きな役人に、変な『改め』をされてないか?」
じっと見つめてくる無垢な瞳に耐えかねて、ハチは冷や汗をにじませながら、わざと大雑把に笑ってみせた。
「ま、多少は気疲れしたけどな。浪人なんてどこに行っても怪しまれるもんだろ」
「……本当にそれだけか?」
「本当だって」
「本当かな~」
その真っ直ぐな視線から逃れるように、ハチは自暴自棄気味に両手を大きく左右に広げ、一歩踏み出した。
「しつこいな! 私を疑うのか? なんなら、変な『改め』をされてないかどうか、竹千代の手で私の体を隅々まで『改め』してみるか?」
半ばからかい混じりの、精一杯の挑発だった。
だが、竹千代はハチの言葉を受けるなり、みるみるうちに耳の付け根まで真っ赤に染め上げ、おたおたとおののいた。
「そ、そんなこと……できるわけなかろう……っ!」
狼狽して視線を泳がせる竹千代の純朴な反応に、ハチのほうまで急激に熱が伝染していく。
「……なんだよ。そっちがそんなに照れると、私まで恥ずかしくなるだろ!」
朱に染まった顔色を隠すように、ハチはぷいと顔を背け、ひじで竹千代の脇腹を小突いた。
二人のやり取りの背後、関所を包む上空では、いつの間にか雲の流れが恐ろしい速さで加速していた。生暖かい風が吹き抜け、肌にまとわりつく。空が激しく荒れる前兆を告げている。
「……そ、そうだ、ハチ! 坂本宿で『力餅』を食べるのだろう?」
「あ、ああ、そうだったな」
「あんこもたっぷりつけてもらおう!」
気まずさを振り払うように声を弾ませた竹千代は、宿場に着くや否や、念願だった名物の力餅を注文し、実に無邪気な様子で頬張り始めた。
「美味いぞ、ハチ! そなたも早く食べよ」
「うん……」
差し出される皿を見つめながら、ハチは箸を持った手を止めていた。
首から下げた頭陀袋の、ずっしりとした重みが鎖骨に食い込んでいる。宇喜多家と八丈島のみんなを救うはずの資金が、今や「竹千代の隣から永遠に消えるための手切金」となって胸元にあるのだ。そう思った瞬間、大好きなはずの甘い餅が、味気ない粘土のように感じられて、どうしても喉を通らなかった。
「……ハチ? やはり、どこか具合が悪いのではないか?」
餅をぺろりと平らげた竹千代が、怪訝そうに眉を寄せる。
ハチは力なく笑い、箸を置いた。
「そうかもな。関所でちょっと気負いすぎたみたいだ。悪いけど、今夜は早めに休むよ」
外は、いつの間にか立ち込めた濃い川霧によって、一寸先も見えない白濁の世界と化していた。湿った白い闇が、宿場の灯りをじわじわと飲み込んでいく。霧のせいで人馬も荷も完全に通行止めとなり、足止めされた旅人や馬子たちの怒号や喧騒で、宿場町はかつてないほどの混雑を見せている。
「こりゃあ、夜中には大嵐になるかもなぁ……」
通りすがりの旅人が、不安げに空を仰ぎ見てつぶやいた。




