第十五話 碓氷関所(3)生まれながらの将軍
動揺を隠すように、ハチは大慌てで首を振る。
「ゆ、友情だよ! 竹千代は……いや、若君は、私のことを『竹馬の友』だと言っていた」
そう言い訳してみたものの、耳たぶがカッと熱くなっていくのが分かった。
竹千代が時折見せる、ハチを愛おしそうに見つめる視線や、不器用な優しさに気づいていないわけがなかった。
そして、ハチ自身もそれを決して嫌だとは思っていないことも。
正勝はハチの赤面を静かに見つめ、さらに踏み込んだ。
「率直に聞く。そなたは、若の側室になる気はあるか?」
「ええっ!? そ、そんなこと考えたこともない……!」
ハチは完全にうろたえた。
真っ赤になりながら、必死に「じっちゃんは徳川に流罪にされたんだ。敵方の軍門に降るなんて絶対にありえない!」と心の中で自分に言い聞かせる。
「そうか。……であれば、頃合いを見て、若の前から黙っていなくなってほしい」
──!
ハチは息を呑んだ。
胸の奥を鋭い刃で突かれたような、自分が思っていた以上に重く、激しい衝撃が全身を駆け巡る。
動揺を悟られまいと、ハチは声を震わせながら早口で言った。
「それだったら、心配いらないよ。道連れは信濃までって、最初から決めてるから」
「付き合いが長くなるほど、思いが深まるほど、離れがたくなり、別れはつらくなるものだ」
正勝の言葉は、冷酷なまでに理路整然としていた。
「別れ際に、若にすがりつかれたら……そなたは本当に、若を突き放すことができるか?」
突きつけられた問いに、ハチは言葉を失った。
脳裏に蘇るのは、江戸を発ってすぐの頃。野盗を切り捨てた竹千代を置いていこうとした時のことだ。あの時、竹千代はハチの小袖の袖を必死に掴み、『余を見捨てないでくれ。頼む』と、まるで捨てられた子犬のように懇願してきたのだ。
ハチは唇を噛み、正勝から視線を逸らした。
「そんなこと言われても……」
(あいつ、結構めざといんだぞ。黙っていなくなれだなんて、そんなに簡単に言うなよ……)
そんなハチの葛藤を見透かすように、正勝は静かに語調を変えた。
「初代の家康公、二代目の秀忠公と違い、若は『生まれながらの将軍』として、物心つく前から厳しく育てられた。子どもらしい甘えなど、何一つ許されなかったのだ」
正勝の瞳に、深い哀愁が宿る。
「不幸なことに、母君であるお江の方は、手元で育てた弟の国松様を溺愛された。そして、兄である竹千代様をあからさまに冷遇されたのだ。その様子を感じ取った幕臣たちは、『竹千代様は廃嫡され、三代将軍は国松様が継ぐのだ』と、まことしやかに囁くようになった」
ハチは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。
あの時、竹千代から感じた「捨てられた子犬」のような寂しさ。それは気のせいではなかったのだ。実の母親に愛されず、周囲の大人たちから値踏みされ、居場所を失いかけていた幼き日の竹千代の姿が、ハチの脳裏に浮かんでは消えた。
「一計を案じた拙者の母・福は、駿府城へ直訴に赴き、大御所様……家康公に竹千代様の窮状をお伝えした。それを聞いた大御所様はただちに江戸城へ来訪され、家臣一同の前で『三代将軍は竹千代である』と厳然と宣言されたのだ。それ以来、廃嫡を口にする者は誰もいなくなった。……そして、こたびの上洛で、ついに若は将軍宣下を受け、日の本の頂点に立つ」
正勝はハチをまっすぐに見据えた。
「この中山道の忍び旅は、征夷大将軍という重責を背負う前に、若に許された『最後の休日』なのだと拙者は思っている。だからこそ拙者も、若のわがままを聞き入れ、ここまで黙って見守ってきた。一度も甘えを許されなかった若の、生涯で唯一の願いを叶えたかったからだ。……だが、それもそろそろ終いだ」
正勝の声が、一段と低く、重くなる。
「これ以上、そなたと行動を共にすれば……若はそなたのために、将軍位を捨てると言い出しかねない」
「そんなこと……っ!」
「ないと言い切れるのか?」
一喝され、ハチは息を詰まらせた。何も言い返せない。
竹千代の自分に向ける真っ直ぐな熱量を知っているからこそ、「絶対にない」と否定することが、どうしてもできなかった。ハチはただ、唇を強く噛み締めるしかなかった。
「一時の情に流されて、若が将軍位を捨てたとしよう」
正勝の言葉は、容赦なくハチの心を抉っていく。
「お江の方は嬉々として若を廃嫡するであろうな。若は親不孝者と誹りを受け、祖父・家康公にあれほど引き立ててもらいながら、その恩を仇で返した恩知らずだと、末代まで語り継がれることになる。若自身もいつか必ず、敬愛する祖父に恩返しができなかったと、畳の上でのたうち回って悔やむ日が来るに違いない。……そなたは、若にそれらすべてを背負わせるだけの覚悟があるか?」
耳鳴りがするほどの沈黙が、座敷に重くのしかかる。
ハチはこぶしを握りしめ、ただ下を向くことしかできなかった。
竹千代が背負っているものの重さ。たびたび口にする「東照大権現」という神号の裏にある、窮地を救ってくれた祖父への、あまりにも巨大で切実な報恩の念。それがどれほどのものか、今のハチには痛いほどに理解できてしまった。
「誘拐の件はすべて不問にする。身代金として要求された金も、全部そなたにやろう」
ざり、と衣ずれの音がした。
驚いてハチが顔を上げると、無骨で誇り高い将軍家の側近が、床に両手をつき、額を畳に擦りつけていた。
「この通りだ」
正勝の声が、かすかに震えている。
「若の『一生に一度のわがまま』を……どうか、綺麗な思い出のまま終わらせてやってくれ。頼む、若の前から消えてくれ」
床に伏した正勝の背中を見つめながら、ハチは自嘲気味に、低くつぶやいた。
「……要するに、この身代金は、手切金ということか」
ハチは、己の首から下げた頭陀袋にそっと手を置いた。
麻布越しに伝わる、ずっしりとした銀の重み。八丈島に流されたじっちゃんを、そして宇喜多家と島のみんなを救うための、輝かしい「希望の重み」であったはずのそれが──今や、竹千代の手を放し、彼の前から永遠に立ち去るための「対価」へと、その色を変えてしまっていた。




