第十四話 碓氷関所(2)大ネズミの殺気
薄暗い座敷の空気は、張り詰めた冬の氷のように冷たかった。
正面に座す稲葉正勝は、隙のない構えのまま、心臓を抉り取るかのような視線をハチにぶつけてくる。その佇まいから放たれる圧倒的な威圧感は、並の武芸者であれば息を吸うことすら忘れてしまうだろう。
「よくも、おめおめと将軍家の世継ぎを誘拐してくれたものだ」
地を這うような低音。正勝は険悪な面持ちのまま、さらに言葉を重ねる。
「どうやって八丈島から出てきた?」
「どうやってって……、とりあえず、泳いで……」
「ふざけるな! ……若に近づいた目的はなんだ? 宇喜多家の再興か?」
「いや、あいつが家康の孫だなんて知らなかったし……。たまたまだよ」
ハチは心外だとばかりに眉をひそめた。
下心などあろうはずもない。そもそも、江戸を発って以降は、竹千代が自分の意志でついてきているのだ。
だが、正勝の鋭い視線はなおもハチを射抜いたままだ。
肌を刺すような、常人なら震え上がるだろう殺気。
しかし、ハチはその気配に、妙な既視感を覚えていた。街道の辻から、あるいは木々の隙間から感じていた、あの冷徹で鋭い視線──。
ハチはぽんと手を打つように、小さく声を漏らした。
「あー……、もしかして大ネズミさん?」
「……いかにも」
正勝の険しくも端正な顔が、一瞬にして憮然としたものに変わった。
ハチの胸から、すとんと憑き物が落ちる。正体が「竹千代の護衛」だと分かった瞬間、不気味な刺客への警戒心が嘘のように消え去り、代わりに、野盗に襲われつつも致命的な事態にならなかったこれまでの旅路が、すべて一本の線で繋がった。
「……お世話になっております」
ハチは、腰を浮かせて畳に両手を突き、深々と頭を下げた。
あまりにも予想外な反応に、正勝は完全に拍子抜けしたように目を丸くした。
「えっ、いや、何……拙者の方こそ……」
釣られて慌てて頭を下げ返した正勝は、コホンと一つ大きな咳払いをし、ばつが悪そうにボリボリと頭を掻いた。
「……若はあの通り、いささか奇特な気性ゆえな。そなたにもずいぶん苦労をかけているだろう」
「ええ、まぁ……。それなりに」
ハチが苦笑交じりに頷くと、座敷に張り詰めていた氷のような空気が一気に和らいでいく。
「やれやれ。若を誘拐した不届きな賊をビビらせてやろうと思っていたのだがな。完全に牙を抜かれた気分だ」
「ははは、それは申し訳ないことをした」
ハチが肩をすくめると、正勝の表情からも険が取れ、無骨な武士の素顔が覗いた。
日頃から、あの竹千代の突飛なわがままに振り回されている苦労人なのだろうと容易に想像がつく。
「拙者の母・福は、若の乳母でな」
正勝は遠い目をして、静かに語り始めた。
「ゆえに拙者も、赤子の頃から若を存じ上げている。……ここ数日、若とそなたの道中を陰ながら見守らせてもらったが、驚いた。若があれほど自然に、心から幸せそうに笑っている姿を、拙者は初めて見た気がする。……側近、いや、若の兄貴分として、そなたには感謝している」
「いや、そんな……」
まっすぐな言葉を向けられ、ハチは急に気恥ずかしくなって視線を泳がせた。
「ご安心召されよ。関所にはちゃんと話を通してある。ここは何事もなく通れる手はずだ」
「何から何まで、ありがとうございます」
「礼には及ばぬ。……ただ、気づいているだろうが、若はそなたに特別な好意を寄せている」
正勝の唐突な一言に、ハチはどきりと心臓を跳ね上げた。




