第十三話 碓氷関所(1)入り鉄砲に出女
上野国、松井田宿を過ぎると、街道の勾配はいよいよ険しさを増してくる。
行く手に立ちはだかるのは、中山道屈指の難所・碓氷峠。そしてその手前、坂本の地には、旅人の行く手を阻む「碓氷関所」が厳然と構えていた。
「ハチ、坂本宿に着いたら名物の『力餅』を食べような。あんこがたっぷりのったやつだ。峠越えに備えて、今のうちに精をつけておかねば」
竹千代は、深編笠を揺らしながらのんきな声を出す。ハチは杖を突き、険しい表情で関所の門を見据えた。
「餅の心配をする前に、あの関所を無事に通れるかどうかを心配しろよ」
「案ずるな。余が用意した通行手形があるだろう?」
「関所といえば『入り鉄砲に出女』だ。私はどっちの禁制にも引っかかるんだよ。……竹千代がいなかったら、私は山を迂回して『関所破り』をするつもりだったんだから」
ハチの告白に、竹千代は「無茶はいかん」と真顔で嗜めた。
「関所破りは死罪だぞ。見つかれば、そなたの『じっちゃん』に会う前に首が飛ぶ。余が道連れでよかっただろう? 少しは余の有難みがわかったか」
「……まあ、そうだな。助かってるよ」
意外にも素直な返答に、竹千代は笠の奥で目を丸くした。
「おお、意外な反応! あの意地っ張りのハチが、ついに余に心を開いてくれたか。余は嬉しいぞ、実に嬉しい!」
「しつこい! ほら、列が動いたぞ」
ハチは照れ隠しに竹千代の背中を小突いた。
構ってほしがりな子犬のような竹千代と、なかなか懐かない子猫のようなハチ。二人の奇妙な距離感は、関所を待つ殺伐とした列の中でも変わらなかった。
詮議を受ける順番が近づく。ハチは声を潜めて竹千代に耳打ちした。
「……念のため聞くけど、ふところの短筒、本当に大丈夫か? 今からでも藪に捨てた方がいいか?」
「心配ご無用。話はついている。何か言いがかりをつけられた時は、余が助け舟を出すから堂々としていろ」
「助け舟? 何する気だ?」
「ふふん。代官の前に進み出て、『余の顔を見忘れたか!』と一喝してやれば、どんな門でも一発で開くぞ」
「……おまえ、本当に頭大丈夫か?」
ハチは心底呆れ返った。この若君は、時折見せる鋭い剣技を除けば、やはりどこか浮世離れしている。
とはいえ、竹千代とて無策で関所に挑もうとは思っていない。
碓氷関所の管轄は安中藩。藩主の井伊直勝は、徳川四天王・井伊直政の長男であり、竹千代とは幼少期からの顔なじみである。もちろん、影で動く稲葉正勝が、事前に「ある程度の便宜」を図るよう手配済みであった。
いよいよ二人の番が来た。お白洲へ進み出ると、威圧感のある役人たちが並んでいる。
張り詰めた空気の中、役人の手にする得物がちろちろと陽光を反射していた。
「次! 旗本・徳山竹千代、および連れの浪人・美作八郎。前へ」
竹千代は堂々と進み出た。
「信濃まで、善光寺参りに参る。手形はこの通り」
役人は手形を改めると、竹千代の顔をちらりと見て、すぐに頷いた。
「徳山殿、相違ない。通ってよろしい」
ここまでは予定通り。だが、問題はハチだった。
役人はハチの前に立つと、胡乱そうに凝視した。明らかに不審者を見る目つきだ。
「……美作八郎。浪人とあるが、どこの門跡だ? 身なりはずいぶん立派だが怪しいな。華奢な体つきといい、まるで女子のような顔だちではないか。おい、こいつを奥へ連れて行け。詳しく『改め』を行う」
役人がハチの肩を掴もうとした瞬間、竹千代がその間に割り込んだ。
「ちょっと待て! 話が違うぞ!」
「竹千代、いいから先に行ってろ。私は大丈夫だ」
ハチは相棒を巻き込むまいと必死に目配せしたが、竹千代は一歩も引かなかった。
「二人一緒でなければ、ここを動かん! ええい、者共、余の顔を見忘れたか!」
竹千代は笠を跳ね上げ、威風堂々と代官を指差した。
ハチは「この馬鹿、ついにやりやがった!」と天を仰いだ。
代官は竹千代の顔をじろじろと眺め、鼻で笑った。
「……知らん。どこの馬の骨だ」
「ええーっ!?」
竹千代の絶叫が関所に響き渡る。
「怪しい奴め。主従揃って虚言の疑いありだ。おまえも再審議だ、奥へ来い!」
代官の命令で、役人たちは容赦なく六尺棒をガツンと交差させ、二人を阻んだ。
竹千代は「ええーっ! 直勝の教育はどうなっているんだ!」と喚きながら、ハチと共に関所の奥にある座敷へと連行されていった。
*
二人は離れ離れにされ、薄暗い座敷に隔離された。
ハチは一人、不安に駆られていた。
(やっぱり手形があっても浪人は信用ないんだなぁ……。それとも短筒がバレたか? ……竹千代のやつ、あんな大声出して大丈夫かなぁ。あいつ、意外と打たれ弱いから……)
その時、ハチの背後で重い潜り戸がギィと嫌な音を立てて開いた。
ハチは作法通りに畳に額を擦りつける。だが、視界の端に滑り込んできた「黒い野袴」に違和感を覚える。
「面をあげよ」
入ってきたのは、先ほどの役人ではない。
柿渋を幾度も煮しめたような、無骨な旅装束の武士だった。
「拙者は稲葉正勝と申す。若……竹千代様の乳兄弟で、今は馬廻番頭を務めている」
正勝はハチの前に座ると、周囲に人の気配がないことを確認し、ドスの効いた低い声で切り出した。
「……さて。宇喜多の『孫娘』殿。少し、二人だけで話をしようか」
ハチの心臓が、凍りつくような音を立てた。




