第十二話 桶川宿、髭を描くか紅を差すか
大宮宿を発ってから数里。街道をゆく二人の間には、絶え間なく一人の男の名が響き渡っていた。
「いいかハチ。祖父上の素晴らしさを布教する称号として『神君・家康公』は、学のない民にも分かりやすい良い名だ。だが、祖父上の偉大さ、荘厳さを表すにはいささか物足りない。音節の響き、字面の見栄え、漢字の持つ深遠なる意味……それらを吟味し、余はやはり神号『東照大権現』を推して参りたいのだ」
竹千代は、深編笠の奥で熱っぽく語り続けている。大宮で「じっちゃん」を侮辱されたハチを慰めてくれた時の凛々しさはどこへやら、今の竹千代はただの熱狂的な家康信者であった。
「久能山の霊廟から勧請して江戸城内の紅葉山にも社殿を造営したおかげで、余は日々祖父上を拝み、その加護を一身に浴びている。だが大権現様の神通力は、将軍家のみならず諸国諸氏、ひいては日の本すべての民に……」
「……はいはい。大権現様はすごいね、偉いね」
ハチは、杖を突きながら投げやりに応じる。自分も「じっちゃんっ子」である自覚はあるが、竹千代のそれはもはや常軌を逸している。
「ハチ、生返事はいかんぞ。余がこうして健やかに三代目を継げるのも、ひとえに祖父上が……」
「その話、大宮から数えて百回目だよ。少しは喉を休めたらどうだ?」
ようやく桶川宿の入り口が見えてきた。
街道沿いには染物市が立ち、「武州藍」の深い藍色の中に、新特産である「桶川燕脂」の鮮やかな紅色が混じる。夕暮れの傾いた光を浴びて、その紅色はますます燃え立ち、人目を惹きつける。
「ほう、見事な色だ。ハチ、そなたは反物に興味はないのか?」
竹千代が、店先に並ぶ絹織物を指差す。ハチは一瞥して鼻で笑った。
「あるわけないだろ。旅の荷物になるだけだ。それに、民の日常着といえば、木綿か麻と相場は決まっている」
「では、紅はどうだ? そなたの唇にさせば、さぞや……」
「させるか! 今の私は浪人・美作八郎だぞ。こっちの藍で髭でも書いた方がマシだ」
ハチはぶっきらぼうに言い捨て、ずんずんと先へ歩く。
だが、その手は無意識に小袖の下、サラシの間に隠した「じっちゃんの手紙」に触れていた。大宮で聞いた老人の言葉が、棘のように胸に刺さったままだ。
(じっちゃんは、本当は帰りたかったのかな。……惨めな流刑だって、あのジジイは笑ってたけど)
心ここにあらずなハチの様子に、竹千代は語りを止め、そっと連れの横顔を窺った。
「……ハチ。紅花というのはな、通導散といって薬にもなるらしいぞ」
「薬?」
「ああ。血の巡りを良くするのだそうだ。悩み事がある時も、体が温まれば少しは楽になるかもしれん」
「詳しいんだな」
「よくぞ聞いてくれた! 祖父上は手づから薬を煎じるほど健康に気を遣う方でな、その処方は実に……」
また始まった。ハチはやれやれと肩をすくめたが、沈んだ気分は少しだけ和らいでいた。
その夜、旅籠の片隅にて——。
竹千代が「厠で用足し」と称した正勝との打ち合わせから戻ってくると、ハチが古びた屏風にもたれて居眠りしていた。
「ハチ、風邪をひくぞ」
「ん……」
よほど疲れていたのか、警戒心が強いハチにしては珍しい。竹千代は肩を揺すって起こそうとした手を止めると、自身の背割り羽織をそっと脱ぎ、ハチの小柄な肩へと掛けた。微かに残る竹千代のぬくもりがハチを包み込む。
強がって悪ぶっていても善性を隠しきれない、お人好しのハチに身代金目的の誘拐を実行させる原動力は、一体何なのか。つねに気を張っていたハチが、こうして自分の前で安らかに寝息を立てるようになったことが、竹千代にはこの上なく嬉しかった。
竹千代は手元に行灯を引き寄せると、微かな油煙の匂いと橙色の光のなか、駄賃帳の余白に筆を走らせた。
磨ったばかりの墨の匂いが、夜の静寂に溶けていく。
紙の上には、なんとも形容しがたい、味のある「ヘタウマ」なハチの姿絵が並んでいる。
「余にもっと絵心があればなぁ」
竹千代は溜息をつき、眠っているハチを見つめた。
男装に身を包んだ今のハチを、竹千代は心から愛おしいと思っている。だが、もしあの唇に、今日見た紅をさしたら……。
「……いかんな、余としたことが」
想像しただけで、カッと顔が熱くなる。
竹千代は、昼間にこっそり買い求めておいた小さな紅の器を、ふところの奥へと仕舞い込んだ。
信濃での別れが来た時、せめてもの餞別に。あるいは、ハチがいつか女子に戻れる日が来た時のために。
翌朝、二人は再び中山道を歩き出す。
家康語りを再開した竹千代と、それに毒づくハチの忍び旅は、鴻巣を過ぎ、熊谷の土手を歩き、深谷、本庄へ──。険しき山々が近づくにつれて、背後に潜む刺客の殺気もまた、確実に濃くなりつつあった。
(⚠️駄賃帳:人馬の利用など、宿場役人(問屋)に記録してもらう旅行用の会計帳簿です)




