第十一話 大宮宿ざまぁ問答(2)祖父は神君
ふと視線を感じて顔を上げると、老人の濁った目がハチの横顔をぼうっと見つめていた。
「あの、何か顔についてますか?」
団子の食べかすでもついているのかと、手の甲で頬をぬぐってみるが、それらしい手応えはない。
「あぁ、失敬……。若かりし備前守様とあまりにも瓜二つなものだから、つい目が離せなくて……」
老人は顔をぽっと赤らめて目を逸らしたが、その後も横目でちらちらとハチを盗み見している。
大好きなじっちゃんに瓜二つだと言われて、自分の目鼻立ちを思い浮かべる。ここに鏡がないのが残念だ。
ハチは指で頬をかきながら「そんなに似てますか?」と、老いたまなざしを見据えた。
「ええ、それはもう……」
老人は媚びるような猫撫で声でにじり寄り、顔を近づけてきた。ツンと鼻を突く、老いさらばえた体臭。ハチは少しおののいて身を引いたが、老人は値踏みするようにハチの顔、肩、手、腰、さらにその下へと舐めるように見回してから、含みのある半笑いを浮かべた。
「ところで、お若いの。どちらへ向かわれる?」
「……善光寺参りに、信濃へ行くところです」
「何か願掛けでも?」
「えっと……良い仕官先と、ご縁がありますように、とか……」
しどろもどろで「浪人・美作八郎」の設定を思い出しながら答えたハチに、老人はひどく身勝手な勘違いをしたようだ。妙に芝居がかった仕草で、天を仰ぎながらぱちんと禿頭をはたくと、「なるほど、お労しや」といかにも同情的な声をあげた。
「だが、その華奢な体格では槍働きは期待できまい。よほど困窮なさっているとみえる」
「そんなことありません!」
ハチはムキになって言い返した。
「こう見えて剣術も槍も弓も、そんじょそこらのヤクザ者には負けません! 火薬の調合だって──」
「お若いの、あなたはまだ世間を知らん」
老人はハチの言葉を遮り、ぐへへと下卑た笑みを隠そうともせず身を乗り出してきた。
「貴人には男色狂いの好事家が多くての……。あなたほどの珠玉の美貌だ、その身を差し出せば、千両箱をぽんと出す者がいくらでもいる。仕官を焦る必要はない、わしが昔の主従のよしみで、とっておきの陰間茶屋を紹介してやろう。……なんなら、まずはわしが最初の相手をしてやっても──」
──ドクン、とハチの心臓が嫌な音を立てた。
さすがに何を誘われているのか察しがつき、胃の腑からどろりとした虫唾が逆流する。
(……このクソジジイ。今すぐこの仕込み杖で、その濁った目ん玉を突き刺してやろうか)
ハチの手が杖の柄へとかかった、その時。
ぱきっと、耳を突く乾いた音が響いた。
隣で黙って団子を食べていた深編笠の男、その手の中で串が真っ二つに折れている。
「……勝てば官軍、負ければ賊軍。世の常だな」
竹千代は静かに口を開いた。
その声は清水のように冷ややかで、圧倒的な怒気を孕んでいた。
「だが、負けた者の忠義や矜持まで、裏切り者が汚す権利はどこにもない」
「な、なんじゃと……?」
老人が気圧されたように身を引く。竹千代は笠を被ったまま、編越しに老人を射抜くような視線を向けた。
「戦は時の運だ。逆の立場ならどうする。もし西軍が勝ち、東軍が負けていたら、そなたは『家康が暗愚だった』と唾を吐いたのか? 情と理のはざまでままならない世の中を、たまたま生き延びただけの者が、命を賭して戦った敗者を嘲笑うな。……見苦しいぞ」
冷徹な凄みに、茶屋の売り子までもが息を呑む。
老人は禿頭のてっぺんまで真っ赤になりながら、何か言い返そうとしたが、竹千代から放たれる「この上なき威圧感」に言葉を失い、逃げるように街道の向こうへ去っていった。
静寂が訪れる。ハチは、救われたような思いで竹千代を見つめた。
「……竹千代、ありがとう」
「気にするな。余は、曲がったことが嫌いなだけだ」
竹千代は折れた串から最後の団子を引き抜くと、のんびりと口に運んだ。
「ハチ。そなたは、祖父上のことが好きか?」
「……うん。大好きだよ。優しくて、強くて、いつも私のことを考えてくれる」
「そうか。ならば、世間の評判など放っておけ。ハチがそう思うなら、その御仁は間違いなく立派な男だ」
竹千代はそう言うと、少し照れくさそうに、まだ青い昼下がりの空を見上げた。
「……余もな、祖父上を特別に尊敬しているのだ。誰が何と言おうと、それだけは変わらない」
徳川家康は七年前に亡くなったと聞いている。
竹千代の視線の先では、雲の向こうから、狸みたいな好々爺が目を細めて孫を見守っているのだろうか。
(じっちゃんを島流しにした憎い敵だと思ってたけど、まっすぐな竹千代がここまで尊敬するってことは、ただの狸親父じゃなかったのかもな……)
ハチは、考えを改めるきっかけをくれた竹千代をしみじみと見直した。
一方の竹千代は、かしこまった様子で両膝に握りこぶしを置くと、「あのな……、まだ誰にも言ったことがないが、ハチにだけは教えてやる!」と真っ赤な顔でどもりながら告白した。
「実は、余は祖父上を神だと思っている」
「……は?」
「心の中で『神君・家康公』と呼んで崇めている。いや、いっそ『東照大権現』と呼ぶべきか。ハチ、どっちが良いと思う?」
ハチは、竹千代のあまりに真剣な、どこか陶酔しきった瞳を見て、引き気味に答えた。
「ど、どっちでもいいんじゃないかな……」
「そうか、どっちも良いか! やはりハチとは気が合うな!」
(……こいつ、本気だ。家康を本気で神格化してやがる……)
ハチは、竹千代の意外な一面——重度の祖父愛——に呆れつつも、先ほどの老人の言葉を反芻していた。
じっちゃんは、本当は備前岡山に戻りたいのだろうか。豪姫様と離れ離れになったことを、どう思っているのだろう。
ハチは、小袖の下、サラシの間に隠した手紙にそっと触れた。
じっちゃんから豪姫様へ。まだ開封していないその手紙に、一体何が書かれているのか。
「……そろそろ行こう、竹千代。桶川までまだ距離がある」
「ああ。次は桶川の『紅花』でも見に行こうか!」
「花より団子だろ、おまえは」
ハチは杖を突き、前を向いた。
竹千代の隣を歩きながら、ハチの心にはこれまでとは違う想いが揺れていた。




