9 漫画家のマンション
鎔先生のマンションは、社長のお供で俺も何度か来たことがあるが、都心でも静かな環境にある低層のマンションだ。
社長はエントランス前のコンソールを使ってインターフォンを鳴らしたが応答はなく、社長はすぐにオートロックを操作してマンションのエントランスに入っていった。そしてエレベーターで鎔先生の部屋がある階まで上がる。
鎔先生の部屋のドアベルを鳴らしたが、ここでも返事はない。玄関に鍵がかかっていたので、社長は鍵を取り出してドアを開けた。この間、特に喋ることなく、社長は淡々と動いていた。もしかして、よくあることなのか?
玄関ドアを開けたると、床一面に散乱している紙がまず目に入った。床が全く見えない。社長が舌打ちする。
「どうなってるんだ」
靴を脱いだあと、社長は紙を踏みつけながら奥へ入っていく。俺はまず手が届く限りの範囲の紙を少しずつまとめて床が見えるようにしてから靴を脱ぎ、上がっていた。紙を集めながら進んでいったが、ちらっと見た感じでは、落ちていた紙は大体がスケッチだった。時折文章が書いてあるものもあったが、それは物語のあらすじだったり何かの設定が書かれたものだったりした。
「津和、来てくれ!」
奥から社長の声が聞こえた。俺はもう構わずに落ちている紙を踏みながら奥に行った。居間は更にひどい有様だった。あちこちに紙の山ができている。その奥にいくつもの段ボールがひっくり返って山になっている場所があった。ソファがある一角で、ソファとテーブルと段ボールとで紙が溜まったまま外に流れていっていないようだ。
「津和、この辺の紙と段ボールをのけてくれ。この下に蘭子が埋まってる」
俺は慌てて紙の中を歩いていった。社長と二人で紙や段ボールをのけていく。たちが悪いことに、段ボールは空というわけではなく、幾つかは重い中身が入ったまま重石のようになっていた。こんな風に紙や重い箱が落ちてきたら、下敷きになった先生はたまったものではなかったろう。
「先生は大丈夫ですか」
「脈はあった。紙の山の下から手が出ていたから、さっき脈をとってみたんだ。おい、蘭子。起きろ」
紙の下から鎔先生の頭が見えてきて、社長がその耳元に呼びかけた。鎔先生は少し身じろぎをすると、顔だけ少し動かして社長を見た。
「あら、祷子。もうそんな時間?」
「ああ。お前、何でこんなことに」
「明け方目が覚めて、もう眠れそうになかったから、荷物の整理を始めてたのよ。そうしたらいろんなものが見つかって。全部引っ張り出して見てたの。そうしたら段ボールの山が崩れちゃって。ああ、ありがとう、津和くん」
最後の礼は、俺が先生を紙の山の下から引っ張り出したことに対して言われたものだった。
俺は言った。
「無事でよかったです。紙の下に埋もれていた時間はそんなに長くなかったですか」
「どうかしら。最後に時計を見たのは七時過ぎだったかしらね。それからどれくらいかしてからこんなことになったから」
「玄関入ってすぐのところから紙が散乱していて、何事かと思ったぞ」
「それは健夫さんが悪いのよ。あの人、いろんなところに資料が入った段ボールを仕舞ってたから。それを一つ一つ見ていたら、あんなことになって。それじゃまずいと思ってここに資料を集めてたんだけど、その途中でまあこんなことになってしまったわ」
「頭が痛いとか気分が悪いとか、そういうことはありませんか」
落ちてきた段ボールで頭を打ったりしていないかと心配した俺に、鎔先生はほがらかに言った。
「大丈夫よ。ただ寝ていただけだから。紙って暖かいのねえ。なんか落ち葉の山に埋もれてるみたいで気持ちよかったわ」
「お前は落ち葉の山に埋もれたことがあるのか」
ため息混じりの社長の突っ込みに、先生はほがらかに、
「私はないけど、昔実家で飼ってた猫がよく落ち葉に埋もれて気持ちよさそうに寝てたわ」
先生は立ち上がり、部屋を見回した。
「あらまあ、大変なことになってるわねえ。全部ゴミ袋につっこめば片づくとして、どれくらいゴミ袋がいるかしら」
「待て待て。簡単に捨てるな。大事な作品の資料だろう」
「でも、どれももう終わった話よ?とっていても仕方がないじゃない?」
先生はあっさり言うが、俺は社長と同じ意見だった。
「駄目ですよ先生。俺がさっき玄関のところで見たのは、多分、シンクロニシティ・レッスンについてのメモ書きでした。見ないで捨てると後で困ると思います」
すると、鎔先生の目が少し半目になった。
「あら、そう。そんなところにそんなものがあったの。それじゃ、うっかり捨てられないわねえ」
「当たり前だ、バカ。うちのプロジェクトについての資料だって混じってるかもしれないのに、勝手に捨てるな」
「大丈夫よ、あれについてはもう決まった場所に置くって決めてあるんだから」
そのとき、先生のお腹が鳴る音がした。社長は半目になって先生を見る。
「お前、最後に食事をしたのはいつだ」
「んー、昨日のお昼?」
「じゃあ、まずは食事だな。津和、食事の支度をしろ。私はこいつを見張りながら部屋を片づける」
言われて俺は冷蔵庫の中を見に行ったが、
「すみません、社長、冷蔵庫はほぼ空です」
「何だって?」
「あー、ごめんなさい。食料、昨日の昼で食べ尽くしちゃって。それで面倒くさくなって食べてないのよー」
へらりと先生が言う。社長はため息をつくと、
「わかった。何か買ってくる。津和、お前は蘭子と例のプロジェクトの進捗について話をしておけ」
社長は部屋を出て行った。
社長が家のドアをしめる音を聞き届けてから、先生は俺に言った。
「ごめんなさいね、ここまで来てもらって。でも助かったわ。祷子と二人きりで片づけるの、しんどいなって思ってたの。祷子が私のことを心配しているのはわかるんだけど、いろいろと物事のペースを緩めようとしないから」
「わかります。今言われているプロジェクトもいろいろと無茶振りなんですけど、一番なのはスケジュール感で。三ヶ月でいろいろ決めてデビューさせろなんて」
「あらそうなの?昔はオーディションから一週間でデビューさせるなんてのもあったって言ってたけど」
「それは昔だからですよ。あと、それはオーディションからの話でしょう?今回はコンセプトとか人選の方法をどうするかすら決まっていない状態からのスタートですからね」
「ああ、そうなの。それじゃ、かなりせかしてるのね。でもそれってきっと、私のせいね」
「え、先生の、ですか?」
唐突な話に、俺は驚いて先生を見た。
「ええ。ユニットのデビューまでのスケジュールを立て込ませて私を忙しくさせていれば、私が変なことを考えないだろうって祷子は考えたのよ。失礼しちゃうわよねえ、誰もあの人の後を追おうなんて考えないっての」
俺は固まった。鎔先生とそのご主人がおしどり夫婦だったのは、何度も会っているので俺は知っている。だから、先生本人が今否定していても、確かにその可能性はあったのだが、そこまで先生が弱っているとは俺は今の今まで思いもしなかった。
「すみません、先生の負担になっていたら……」
「あらいやだ、そういうつもりはなくてね。いいのよ、楽しませてもらってるから。巧くんたちのところに行ったのも楽しかったわ。創作意欲をかきたてられたっていうか。シンクロニシティ・レッスンの続きを描きたくなったの」
「え、本当ですか」
俺は驚いた。シンクロニシティ・レッスンは亡くなった鎔先生の夫が原作を担当しており、その彼が死んだ後、連載が止まったままになっていた。これまで先生は連載の再開は考えていないような口振りだったのだが、
「本当よ。それで津和くん、玄関の方に落ちていたっていうシンクロニシティ・レッスンのメモ、持ってきてもらえないかしら」
俺は玄関まで戻り、さっき見たメモを持ってきた。メモを読んだ先生はため息をついた。
「これはもうわかっている部分だわ。もっと他に残ってないのかしら」
「もしかして、続きについてご主人は何も残していないんですか」
「いいえ。間違いなくあの人は書いてた筈なの。でも、見つけることができていないの。それもあって続けられないでいるのよ。ねえ、津和くん。前も言ったけど、シンクロニシティ・レッスンの続きを一緒に考えてもらえないかしら」




